私たちが生きている世界には、
身近なことから人類全体に関わることまで、
さまざまな問題が溢れています。
意外に知られていない現状や真相を、
本学が誇る教員たちが興味深い視点から
解き明かします。
日本は、国の債務残高が1000兆円にまで膨らんでいるという報道をよく耳にすると思います。あまりにも金額が大きく、また天文学的な数字であるため、我々国民にとってはほとんど実感がわかないというのが、正直な話でしょう。
下の資料をご覧ください。財務省が発表している平成23年度の国の一般会計を一般家庭の1ヶ月分の家計に置き換えたものです。
これを見ると、収入が40万円しかない家庭なのに75万円の支出を行っています。ということは、その不足分の35万円は借金です。こんなでたらめな家計をやりくりしている一般家庭が世の中のどこにあるのでしょうか。日本財政がこのようなとんでもない額の借金を背負うこととなったのは、日本人の多くが、「会計学」や「会計」の役割ないしは社会的な機能に対しての知識や理解が乏しいことが原因として考えられます。
一般に「会計」という言葉を聞くと、「お金の計算」とか「銭勘定の学問」ではないかと考える人が多いと思います。これは必ずしも間違いではありません。しかし、「お金の計算」自体が「会計」の本来の役割では決してありません。
「会計(学)」は英語で言うと、「accounting」といいます。これは「account」に「ing」がついている形です。「account」には名詞と動詞の意味があり、大学受験英語で「account for~」という重要イディオムがあるのを知っている人もいるでしょう。この「account for~」という言葉は「~を説明する」「~の責任を持つ」「~を報告する」という意味で、まさにこれこそが「会計」の本来の意味を表しています。
基本的に「会計」という世界は、我々の経済社会の中で行われる、様々な経済活動の実態を忠実に描写した内容を、一定の情報として「報告・説明」することであり、それによって情報の利用者が正しい意思決定を行うことができるようにする、一連のプロセスを指します。
ただ、地球上のほとんどの国が貨幣経済の社会であり、日々の経済活動を映し出したり、計算する根拠になるのが「お金」であるため、「会計」の「ものさし」としても、「お金」の計算結果を採用しているだけなのです。
経済活動を正しく説明するのが「会計」ですが、それを支える情報を一定の手続によって記録する技法として「複式簿記」という帳簿記入の方法があります。まずは「簿記」には「単式簿記」と「複式簿記」があることからふれましょう。
一般家庭で「会計」とか「簿記」について考えるとき、通例、家庭の場合は「家計簿」、子どもたちは「おこづかい帳」を思い浮かべるでしょう。この「家計簿」や「おこづかい帳」は、「(収入)−(支出)=(残高)」という計算の中で、収入ないしは支出のいずれか一面的な視点での記録しかしない方法であって「単式簿記」といわれるものです。
「複式簿記」も単式簿記同様、「(収入)−(支出)=(残高)」という計算をすることは変わりありません。ただ、一つの事実ないしは活動の記録を常に二面的に分解して記録することで、「原因」と「結果」、あるいは、ギブ・アンド・テイクの関係を明らかにすることができます。
例えば、自動車を100万円で購入したとします。「単式簿記」では、自動車の購入により100万円という現金が支出したことのみを記録します。一方「複式簿記」では、100万円の現金は支出して減少したけれども、それに代わって、同額の自動車という財産が増加したということを同時に記録するのです。
このように「複式簿記」では、現金といった資産の増減の原因と結果が分かり、その結果、適切な財産管理をすることができます。今日、企業の会計、または個人レベルでも、正しい経済活動を説明するツールとして「複式簿記」を採用することは当然だといえます。
この「複式簿記」に関する最古の書物は、今から500年以上前にイタリアのルカ・パチョーリという数学者によって著わされた「スンマ」と呼ばれるものであり、かの有名な哲学者・ゲーテは、自分の書物「ヴィルヘルム・マイスターの修行時代」の一節で、「複式簿記は、人間の英知が生み出した最高の発明である」と絶賛しています。それほど、我々の経済活動を貨幣額によって映し出して記録していく上では、すばらしい記録方法なのです。
しかし「会計」=「複式簿記」ではありません。「複式簿記」は単なる記帳技法であり、あくまでもツールないしは計算のための手段です。スポーツで例えれば、ルールを覚えたからといって、プレーが上手になったり強くなるワケでもないように、「複式簿記」ができたからと言って、直ちに「会計」のすべてが分かるワケではありません。「複式簿記」の考え方を習得することは、会計に対する理解を高めるための入り口として欠かせないものであり、それを前提に、会計を正しく学ぶことがより大切なのです。
企業が当たり前に採用している「複式簿記」ですから、もちろん国や地方自治体の会計方法にも採用されていると思うでしょう。しかし、これが恐ろしいことに、わが国の場合、そのほとんどで「複式簿記」を採用していないのです。
国や地方自治体の会計は、前年度の比較で予算を作り、その決まった予算をその年度内に使うだけ。したがって、その記録も、まさに、単式簿記的発想でのものしか採用していません。戦後から1990年のバブル崩壊まで、ずっと右肩上がりで経済成長をとげてきた日本は、国も地方自治体も、その年に支出超過があったとしても、来年は税収入が増えるだろうと勝手に見越して、次年度の予算を作るということを繰り返してきました。お金のことは常に先送りでやってきてしまったことが、国の債務残高1000兆円、また地方自治体のほとんどが財政赤字を抱える結果となったのです。
1999年。石原慎太郎氏が東京都知事になった時、東京都は巨額の財政赤字をかかえていました。財政再建のために、石原氏が「東京都はいったい、全体でいくらの財政赤字を抱えているのか」と関係者に尋ねたら、「担当している個々の部署でのプラスマイナスは分かるけど、全体は分からない」との答えが返ってきたとのことです。つまり今まで「単式簿記」のおこづかい帳レベルの記録しかなかったという現実が見えたのです。
東京都は石原氏のもと、財政再建に取り組み始めました。新たな会計制度とシステムを作るために時間はかかりましたが、2006年に正式スタートして以来、東京都の財政赤字は解消され、健全財政へと生まれ変わっています。
「日本の国家の会計制度ほどばかげたものはない。単式簿記の会計制度でやっている国は、先進国で一つもない」
2012年10月25日。石原氏が都知事を辞職し、国政に再出馬する際の記者会見での言葉です。また同年5月14日産経新聞掲載の「日本よ」という石原氏のコラムでは下記のようなことも言っています。
「日本の周辺で大福帳なみの単式簿記を行っているのは、北朝鮮とフィリピン、パプアニューギニアくらいのものだ」
日本は民主主義が成熟している国であるということから、それを支える資本・証券市場も発展しているように見えますが、その背後にある「会計」に関しては、超後進国であると言わざるをえません。先進国の日本が、発展途上国並みもしくはそれ以下の会計レベルであるのは信じがたい事実ではありませんか。
日本では、江戸時代の頃から「武士は食わねど高楊枝」、「宵越しの銭は持たぬ」と言われてきました。すなわち、日本人には「お金のことを言うのは格好が悪い」「お金は不浄」という思考が染みついているのではないでしょうか。また、日本の国は単一民族で、ほとんどみんな同じ価値観で生きていることから「あうんの呼吸」、「以心伝心」と言って、「言わなくても分かるだろう」「説明しなくても分かるだろう」という風潮があること、また、報告や説明というものを軽視する日本人の意識などもまた、「会計学」を重視する姿勢や会計業務に対する支援体制が弱い原因ではないかと思うのです。
「会計」は、日々の経済活動の中で重要であることは明らかです。「会計」には右の表のように様々な領域や役割がありますが、そのそれぞれが経済活動で重要な役割を担っています。しかし「会計」を学ぶことは、何も「経理」や「財務」など「会計」のスペシャリストにならなくても、また会社経営や会社の中枢を担う立場にならなくても、普通の「経済人」としての人間力を高める、とても大切な素養だと思うのです。
「会計」のツールである「複式簿記」を学び、「1つのことを二面的に考える」という思考を養うことは、自分だけでなく他者のことを考えられる力を養うことにつながります。「自分の言動や発想を、自分の関係者・当事者はどう思うのか」。自分を取り巻くあらゆることを二面的に複眼的に判断することで、相手を思いやる気持ちや自制心などを養っていくことができるでしょう。これはいじめや体罰といった問題の解決に有効な「倫理観」を養うことと同じだと言えるのではないでしょうか。また国際社会で生きるために必要な「説明力」をも身につけることができます。
この地球上の人間社会では「会計的素養をもっていないと何もできない」と言っても過言ではないのです。もちろん「会計」という役割や業務を専門に活かしたいと思う人は、公認会計士や税理士というスペシャリストの道で、より社会に貢献していくことができます。
私たちの日々の生活はすべて経済活動の一環をなしており、その経済活動の中の重要な役割を担っているのが「会計」だと言うこと。また我々が日常生活を安心して送るためには、「会計」は欠くべからざる領域であることが分かっていただけましたでしょうか。
まさに「経済活動あるところ、会計あり」なのです。「会計を知らずして経済は語れない」ということです。
(2013年掲載)