青山学院大学の教員は、
妥協を許さない研究者であり、
豊かな社会を目指し、
常に最先端の研究を行っています。
未来を創る本学教員の研究成果を紐解きます。
TOPIC
研究のポイント
複雑な条件が絡み合うと考えられている生体の細胞内において、染色体の動きがブラウン運動を元にした物理学的にシンプルな数式で表現できることを発見しました。論文は物理学の専門誌として最も権威があると言われる米国科学雑誌“Physical Review”の速報版“Physical Review Letters”に掲載され、物理学系のみならず生物学系の研究者からも高い注目度を獲得しています。
トピックを先生と紐解く
坂上 貴洋
理工学部 物理科学科
京都大学 総合人間学部 基礎科学科卒業。京都大学大学院 理学研究科 物理学・宇宙物理学専攻 博士後期課程修了。京都大学 博士(理学)。専門分野は統計物理学、高分子物理学。以前より細胞内の物理法則に迫る生物物理学の世界にも高い関心を抱いていた中で、今回、共同研究者である国立遺伝学研究所木村暁教授の呼びかけに応えて共同研究に参加。専門性を生かし、生物学の専門家とともに大きな成果を残した。
細胞内では細胞内小器官やタンパク質などが激しく動いていて、染色体(クロマチン)も動いている
染色体の動きを観測したデータに基づき、運動を支配する物理法則の数式を発見
ブラウン運動に基づく考え方をベースに細胞内の動きという生物学領域を物理学的視点から解明
2017〜2022年にかけて「遺伝子制御の基盤となるクロマチンポテンシャル」という新学術領域研究(*)が行われました。その一環で細胞建築学を研究している情報・システム研究機構 国立遺伝学研究所の木村暁教授が、動物の胚発生過程で低下していくクロマチンの運動について解き明かす研究を行っていて、観測結果の解釈について「高分子物理学の視点から協力してほしい」と声をかけていただいたことをきっかけに、私も共同研究に参加しました。
もともと理論物理学を専門としていますが、以前から関心があった生物の研究をいつかしてみたいと考えていました。ただ、生物を扱うことは専門ではなく難しいと考えていたので、今回は非常に良い機会をいただけたと感じていますし、これからも専門分野を超えた共同研究を進めていきたいと考えています。
*国内の学術水準の向上・強化につながる新たな研究領域について、共同研究や研究人材の育成、 設備の共用化等の取り組みを通じて発展させることを目的とする、科研費の一種目。本研究の課題名は「物理計測と理論モデル構築によるクロマチンポテンシャルの理解」。
細胞の中ではミトコンドリアなどのさまざまな細胞小器官やタンパク質が激しく動いています。遺伝情報を担う染色体はDNAとタンパク質の複合体であるクロマチンという紐状分子が凝縮してできているのですが、このクロマチンも同じように動いていることが分かっています。これについて、発生初期の細胞を見ると、2細胞期→4細胞期→8細胞期と胚細胞の分裂が進むにつれてクロマチンの動きも小さくなることが最近の研究で分かってきました。
分裂に従って染色体を収容する細胞核のサイズが小さくなります。そのため、まるで満員電車の車内のように、狭いところに閉じ込められる分だけ動きが小さくなるのではないかというような推測もありました。また、食品に用いられる増粘多糖類を想像してもらえるとイメージしやすいのですが、紐状の長い高分子であるクロマチンの濃度が増せば増すほど粘性率が増して、動きも遅くなるだろうといった想像もできます。
そういった今まで推測で止まっていた、細胞内でのクロマチンの動きとその法則性について解明する取り組みが今回の研究テーマです。
木村教授らの研究によって、クロマチンが細胞核内で動いている(拡散している)ことは観測され、その運動性を評価する定量化もできました。その成果を一歩先に進めて、その運動性に普遍的(定性的)な法則があるかどうかを見出したのが今回の研究成果です。
まず定量的な動きの観測についてお話しします。細胞核内で観測された動きを見てみると、それはまるで微粒子のブラウン運動のようでした。ブラウン運動というのは微粒子が熱運動する周囲の分子の衝突を受け不規則に動く運動のことですが、クロマチンの動きはあたかもブラウン運動のようでありながら、同時にデータを注意深く解析していくと通常のブラウン運動とは異なる様子も見えてきました。
細胞内でのクロマチンの動きの定量化
今、お話した細胞核内でのクロマチンの運動の観測は、クロマチンの一部、遺伝子情報を有したDNA部分(遺伝子座)を蛍光染色して行われたものです。そのため可視化された部分は一見ブラウン粒子的に見えますが、実際はクロマチンという巨大な紐状分子(高分子)の一部分を見ているに過ぎません。そのため、この観測されている遺伝子座に対して、極めて長い紐状の部分が何らかの影響を与えているのではないかと考えました。満員電車の例え話に戻れば、周囲の乗客の影響を受けているけれど、身動きが取れない状況ではなく、たくさんの乗客同士が長い紐で結ばれたような状態です。近い部分ではある程度自由に動くことができても、長い距離を動こうと思えば紐の束縛のために周りの乗客と一緒に動かざるを得ない、つまり、通常のブラウン粒子のようには容易には動けないと考えたのです。これが、クロマチンの動きが通常のブラウン運動とは定性的に異なる理由です。
クロマチンが長い紐状分子であることを表現するイメージモデル
では、発生に伴い、運動性が低下するのは何故か?先ほど、粘性率という話がありましたが、たしかに高分子であるクロマチンが高濃度含まれている細胞核の中は粘度が上がっています。でも、それはマクロ(細胞核のスケール)の話であって、もっと細かな部分を見ると、細胞核の中はクロマチンによって作られた網目のようになっていて、その網の中は比較的さらさらしている。だから、クロマチンの運動を考える時、短時間での網目より小さなスケールでの運動と、長い時間かけておこる網目より大きなスケールでの運動とを区別して考えようとなる。そして、その網目の大きさは、胚発生の進行と共に細胞核の大きさが減少するにつれ、小さくなるのです。細胞核の大きさ減少はクロマチンの濃度の増加を意味しますので、このことを踏まえると、網目サイズが小さくなるのは直感的にも理解されると思います。
論点を整理すると、胚発生の進行とともに、細胞核の大きさが減少し、細胞核内のクロマチンの空間構造を特徴づける網目サイズも小さくなる。そして、クロマチンの運動特性は網目サイズを境に定性的に変化する。ここまで来ると、発生ステージの異なる細胞でのクロマチン運動を適切に比較するには、運動の移動距離を、網目サイズを「ものさし」として測りなおすという発想に自然に行き着きます。
異なる大きさの核で取得したクロマチンの動きのデータを、網目サイズを「ものさし」として規格化してみると、見事なまでに一本の線上にデータが収斂していきました。
一見、発生のステージごとに異なるように見えるクロマチンの運動特性も、網目サイズという基本的長さスケールを「ものさし」として採用して現象を見ることにより、実は同じ法則に従っているのだということが明瞭にわかったわけです。このようにして実験的に明らかになった法則は、まさに、高分子物理学の解析により予言されるものでした。生きた細胞の中で起きているクロマチンの運動に潜む普遍的な側面を、高分子物理学の視点から解き明かすことができたと考えています。
細胞内の染色体の動きの定式化までの流れ
論文をどの科学誌に掲載するかということは研究者にとって考慮すべき一つのポイントですが、今回は複雑な生体内において、クロマチンの運動をこれほど単純化した数式に落とし込むことができたということをより多くの科学者、特に生物系の研究者にも知っていただきたいと考えたので、インパクトファクターの高い“Physical Review Letters”を選択しました。査読者の先生とは「本当にこんな単純に説明できるのか」ということで何度かやりとりをして、確認を重ねてもらいました。その結果、十分な説得力が認められて掲載に至っています。
わたしたち研究チームもより多くの方にこの成果をPRしたいので、今でも学会などの機会があるたびに紹介するようにしていますが、皆さんから非常に高い関心を示していただいています。
本研究では、まず一つの可能性を示したに過ぎないと考えています。今回の数式は線虫の初期発生胚にしか適用していませんので、これからより複雑な環境下となる分化が進んだ細胞内ではどうなるのか、さらに他の発生時期やあるいは複雑な生物の細胞での適用へと、など、今回共同研究した先生方とともに理論を発展させていきたいと考えています。また遺伝子座の運動が遺伝情報の転写活性など、生物学的機能とどのように関連しているかというのも非常に興味深い領域です。
物理学者はつねに現象の中に普遍的なものを見出そうとしています。生物という極めて複雑な存在の中に、いかに普遍性を見出すかという大きな挑戦をさせていただけたのは本当に貴重な経験となりました。さらに今回の研究も広い意味でとらえると、私の関心を抱き続けているブラウン運動論に関連します。ブラウン運動についてはこれからも研究を続けていきたいですし、統計物理学やソフトマター物理学の視点から、生命現象の探究も行っていきたいと考えています。