私たちが生きている世界には、
身近なことから人類全体に関わることまで、
さまざまな問題が溢れています。
意外に知られていない現状や真相を、
本学が誇る教員たちが興味深い視点から
解き明かします。
近年、文学界を沸かせたニュースと言えば、2015年に又吉直樹さんの「火花」が芥川賞を受賞したことでしょうか。私も大変面白く読ませてもらいました。登場人物の心の動きや葛藤を非常にうまく捉えて表現されていたと思います。ただしこの作品が30年、50年、100年と読みつがれていくものになるかどうかは、もう少し時代の評価を待つ必要があります。時代に流されない普遍性が作品の中にどれほどあったかということで、最終的にその作品の価値は決定されるものだと思います。
その点、「古典」は、数百年という長い時間を経てなお今に読み継がれているわけですから、それだけで普遍的な価値を有するものとして大きな信頼をおくことができるといえるのではないでしょうか。
実学を重用する昨今の流れの中で、人文学系学問は軽視される傾向にあると見受けられますが、みなさんはどのように感じますか?学問を「世の中の役に立つか、立たないか」という一方的な見地からだけで判断するという考え方自体に、そもそも難があるように私には思われます。なぜなら、この社会は実業を支えている学問だけがあれば良いというものではないからです。文学部の教員である私がこのような発言をしても身内びいきのように聞こえるかもしれません。しかしながら、「人文学は実学を根底で支える学問である」という声は、経済界や医学など実学系のトップランナーなどからも発せられています。人文学は最も汎用性が高い学びであり、どんな生き方をするにしろ人文学の知識が無駄になることはない、さまざまな学問に通じる学びだと思います。
もしも自分の国の過去の文化や言葉、感性、人についての知識が絶たれてしまったら、私たちは自らの考えの拠り所や基盤を失ってしまうのではないのでしょうか。よく「異文化コミュニケーションの大切さ」がうたわれますが、異文化には「空間的異文化」と「時間的異文化」の2つがあると私は考えています。空間的なものが諸外国とのコミュニケーション、そして時間的なものが過去の時代の文化とのふれあいです。古典を学ぶことで、現代と異なる生活文化を知り、今を相対的に捉える視点を養うことができるのです。
例として『源氏物語』の冒頭「桐壺巻」を見てみましょう。
「いづれの御時にか、女御・更衣あまたさぶらひたまひけるなかに、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれてときめきたまふありけり」。
帝にたくさんの妃がいる中で、取り立てて高い身分の出身ではないものの寵愛を受けている女性がいたという導入です。平安時代、貴族は官僚であり政治をになっている存在です。帝は有力な貴族の娘を妃に迎えて、彼女たちをそれぞれの出自に応じて大事にしなければならない。そうしなければ、政治的な力のバランスが崩れてしまいます。そのような時代にあって、身分にとらわれることなく純粋な想いだけでひとりの女性を公然と愛してしまっているというこの冒頭部分は、言わば帝がある種の失政を行なっているということが述べられているのです。皆さんは、「桐壺巻」を単純に帝と桐壺の純愛物語、悲恋物語としてとらえていたのではないでしょうか?
身分にとらわれない1対1の恋愛関係が価値のあるものとして、ある種の神聖さをもって日本で受け入れられたのは、明治期のことです。それ以来、長く見積もってもせいぜい150年。こうした神聖化された恋愛観は、長い歴史の中ではごく最近の傾向だといえます。平安時代から江戸時代までの人々が読んで受ける『源氏物語』の印象と、現代人の受け取り方はいささか違うであろうことが推測できます。古典を学ぶことによって、今、普遍的だと考えられているものに対する別の視点や価値観の存在を知ることは、現代を生きる上でも大切なことだと思います。
最近の学生は「どう読めば正解なのか」と、読み方の正誤を気にする人が多くなっているように思います。何故そんな若い人が増えたのか、私なりに考えてみたのですが、理由のひとつとして、高校までの国語教育と、大学に入ってから「文学を学ぶ」ということの間に、大きな乖離があるのではないかと感じています。
中学・高校で習う国語は試験をすることを前提にしていますから、必然的に問いと答えをつくらざるを得ません。ですから正解と不正解がどうしても出てきてしまいますが、本来、文学研究は正解を問う学問ではないのです。
中学・高校で習う国語という授業についていうと、教科書を使う限り、そこに載っている作品は、すべてどこかしら濾過されたものです。『源氏物語』は1000年もの間、読みつがれてきた史上最高の恋愛小説のひとつですが、教科書に掲載されている部分は恋愛感情や性的な部分があまり感じられないところばかりです。教科書の『源氏物語』を読んだだけでは、『源氏物語』の本質を理解することは到底無理です。
教科書で触れただけでその作品を理解したような気持ちになるのではなく、できるだけ作品そのものをきちんと読んでもらいたいと思いますし、特に若い方には、若いうちにできるだけ多くの作品に出会ってほしいと思います。なぜなら、同じ作品を20代で読んだ時と、40代で読み直した時とでは印象がまるで変わることがあるからです。若い時の読み方が未熟だったというわけではありません。若い時には、若い時なりの読み方があり、それ自体はその時に感じた真実なのです。それを40代になって読み直した時にまったく違う印象を受けることがある、そのこと自体が非常に貴重な経験なのです。
一冊の本を通じて、自分自身と対話することができる。例えば、世間で評価が高い本を読んで「自分にはどこが良いのかわからない」などということがあってもいいのです。それで自分の好みの傾向がわかりますし、自分の性格を読み取る手段にもなると思います。ですから若い時にできるだけ多くの作品に触れ、そこに描かれたさまざまな感情や、作中人物の言動を読むことで、多角的なものの見方を覚え、自分自身を育ててほしいと思います。
古典に『蜻蛉日記』という作品があります。作者は、藤原道綱の母で、平安時代の貴族の女性が一夫多妻制の妻問婚の結婚生活を送る中であふれた想いを赤裸々に綴ったものです。これまで『蜻蛉日記』は、夫である藤原兼家への愛情からくる恨み・つらみ・不満をぶちまけ、望みが断たれた過程が描かれているのだと解釈されてきました。しかし兼家が権力闘争を勝ち抜いていく様や、道綱の母がそれに関わって兼家のために有力者に文を書いている事実などを読み取っていくと、実は、政治家として優秀な夫を支え、夫の地位を引き上げることに奔走する道綱の母と夫との共闘の姿が見てとれるという説があります。この説に従えばこの作品は、出世する夫を持った幸福な一人の妻の記録として理解することもできるのです。
これはどちらの解釈が正しいという話ではなく、作品のどの部分を重視するかによって捉え方が変わり、より豊かな読み方が可能になるというひとつの好例ではないかと思います。文学を読むということ自体を「受動的な行為」として受けとめる人が多いかもしれませんが、読み方の角度を変えてみるという一種の「能動的」な読み方をすれば、これだけ面白さが広がるのです。
文学と触れ合うということ。それは「テキストと自分との対話」であり、人生とともに積み重ねてきた自分自身の言語体験を背景として文学にふれ続けることは、言語表現や感情が豊かになり、自分自身の成長につながることだと思います。人は「言葉」でできています。テキストにふれたことで、これまで自分の内面にあるとは気づかなかった“あるもの”に気づいたり、自分の中の何かと共振することで、<自我>のあり方が深まっていく。そうした文学とのふれあいの中で、人は新しい価値観や考えを見つけ、成熟していくのだと思います。
(2017年掲載)