私たちが生きている世界には、
身近なことから人類全体に関わることまで、
さまざまな問題が溢れています。
意外に知られていない現状や真相を、
本学が誇る教員たちが興味深い視点から
解き明かします。
私が授業で担当しているのは西洋古代史。つまり、西洋文明の底流と言うべきギリシア・ラテンの古典を生み出した社会の歴史です。
皆さんの中には、中学や高校で歴史を学ぶ中で、「なぜ歴史を学ぶ必要があるんだろう?」と疑問に感じたことのある人も多いのではないでしょうか。
「賢者は歴史に学ぶ」という言葉があります。過去の事実を正しく理解していない人は、現在の事柄に対しても盲目になりがちです。例えば、今日ユダヤ人とイスラム教徒がなぜパレスチナをめぐって激しく対立しているのかを知るためには、その背景となった古代以来のイスラエルの歴史を正しく理解していなければなりません。
また、自らの主観に基づいて歴史を歪めて解釈し、「過去はこうだったのだから、これからはこうなる、こうしなければいけない」と主張する人に対して、「その主張の根拠は、客観的事実に照らして誤っている」と指摘できることも大切なことでしょう。
そのうえで、「歴史とは多面的・多角的なものである」ことを理解する……私は、これこそが歴史を学ぶことの最も重要な意味だと考えています。学んだ歴史をそのまま鵜呑みにするのではなく、「別の見方」があることを意識してほしいのです。
そこで、このコラムでは、皆さんもよくご存じのクレオパトラを例に、歴史の多面性について考えてみたいと思います。
皆さんは、クレオパトラという人物に、どのようなイメージをお持ちでしょうか?
ご存知のように、クレオパトラは古代エジプト最後の女王。その美しさを武器に、カエサル、アントニウスというローマの英雄2人を魅了し、ローマを征服しようとした“妖艶なる悪女”、そして、最期は毒蛇にわが身を咬ませて自害した“悲劇の主人公”として知られています。
こうしたクレオパトラの人物像を語るうえで欠かすことのできない出来事が「アクティウムの海戦」です。世界史の教科書では、「紀元前31年、オクタウィアヌスが、アントニウスとクレオパトラの連合軍を破ってローマ世界の覇権を握った海戦」と書かれています。
古代ローマの詩人・ウェルギリウスの叙事詩『アエネイス』では、アクティウムの海戦を「奇怪な東方の神々に対する、イタリアの神々の勝利」として描いています。この“奇怪な東方の神々”を率いる異国の女王がクレオパトラです。
また、同時代の詩人・ホラティウスの『歌章』には、クレオパトラについて、こんな記述が登場します。
「されどかの女は、むしろ気高き死を願い、剣におののく女々しさも見せず、(中略)雄々しくぞ、面持ちも静かに、くずれし宮殿をうち眺め、いまは死を熟慮(おも)うていや猛りつつ、黒き毒を身中(みぬち)に吸収(すい)とろうと、勇しや、おそろしき毒蛇(へび)を手にしたのだ」(藤井昇訳『歌章』(現代思潮社より))
このウェルギリウスやホラティウスの記述こそが、その後シェイクスピアの戯曲や映画に影響を与え、今日まで人々が知る“クレオパトラ像”の原型となっているのです。
これに対して、アクティウムの海戦から約100年後に書かれたタキトゥスの『年代記』では、まったく別の歴史が描かれています。“古代ローマ最高の歴史家”といわれるタキトゥスは、当時としては驚くほど、正確かつ公正な叙述で知られる人物です。彼は、アクティウムの海戦について「派閥争いの中で最終的にアウグストゥスが勝利を収め、政権を独占した。そしてその親族や忠実な部下たちが政権の中枢に座った。これが帝政の本質なのだ」と、きわめて簡潔に書いています。つまりアクティウムの海戦は、ローマ国内でたびたび繰り返されてきた“派閥争いによる内乱”のひとつに過ぎなかったというのです。クレオパトラに関する記述は見あたりません。
なぜ、これほどまでに異なる「歴史」が描かれたのでしょうか?その謎を解き明かすために、アクティウムの海戦の背景について説明しましょう。
“英雄”カエサルが暗殺された後、遺言によって養子とされカエサルの名を継いだオクタウィアヌスは帝国西部の支配者に、そしてカエサルの側近だったアントニウスは東方の支配者となります。
アントニウスはオクタウィアヌスの姉・オクタウィアと政略結婚をしたものの、やがてエジプトの女王・クレオパトラとの同盟関係を強化しました。そしてアルメニアを攻めて勝利した際の凱旋式では「クレオパトラにキュプロス、キュレネ、シリアなどを与える」と宣言します。あろうことかローマの属州をエジプト女王に寄贈してしまったのです。さらにはオクタウィアと公式に離婚。姉を侮辱されたオクタウィアヌスは怒り心頭に発し、ついに両雄の対立は決定的なものとなりました。
オクタウィアヌスは、「アントニウスは祖国の裏切り者だ。外国の女に仕える傭兵隊長に成り下がった!」と喧伝し、全イタリアの忠誠を集めます。そしてアントニウスに対してではなく、エジプトの女王・クレオパトラに対して宣戦を布告します。「これはアントニウスとの権力争い(内乱)ではない。エジプトを中心とした“東方連合軍”からイタリアを守るための“聖戦”なのだ」というメッセージです。史上名高いアクティウムの海戦は、こうして始まりました。
ところが、戦闘開始から間もなくクレオパトラの船が戦線を離脱し、アントニウスもこれを追ったため、戦いはオクタウィアヌスの圧勝に終わりました。アントニウスとクレオパトラはアレクサンドリアに逃れて再起を図りましたが、その願いは叶わず、自害したと言われています。
アクティウムの海戦というと、東軍500隻、西軍600隻の大艦隊が激突した戦いを想像してしまいますが、実際には、アントニウスとクレオパトラの艦隊の一部が包囲網を中央突破し、エジプトに逃れた戦いに過ぎなかったのです。それが、どうして『アエネイス』や『歌章』に描かれたような“大海戦”になってしまったのでしょうか?その背景には、勝者となったオクタウィアヌスの思惑がからんでいます。
内乱に勝利し、「アウグストゥス(威厳者・尊厳者)」の称号を手に入れたオクタウィアヌスにとって、次なる課題は、その地位を合法化し、揺るぎない政権を樹立することでした。そのためには、東方に対するイタリアの勝利、そしてアウグストゥスが実現した世界平和……という、美しくも壮大な物語が必要だったのです。
そのために、皇帝アウグストゥスの文化面の補佐役だったマエケナスは、新世代の詩人や芸術家を手厚く庇護しました。こうしてマエケナスの支援を受けたウェルギリウスやホラティウスらは建国神話を高らかに歌い、歴史家リウィウスは建国以来のローマ史を、愛国的で教育的な国民的歴史として書き上げたのです。ちなみに、「芸術文化支援」を意味するフランス語「メセナ」(mécénat)は、マエケナス(Maecenas)の名に由来しています。
「歴史は勝者によって書かれる」という言葉がありますが、私たちがよく知るクレオパトラの人物像は、自分の支配を不動のものにしたいと願うオクタウィアヌスがつくりあげたものといっても過言ではありません。“強く、美しい、異国の女”というのは好都合な敵のイメージだったのです。こうして見てみると、いま現在、私たちが生きている社会も、やがて誰かがつくったシナリオによって歴史に刻まれていくのかもしれません。
歴史を学ぶということは、単に過去の出来事を覚えることではありません。その時代を生きた人間の営みを見つめることを通して、「いま、なぜ世界はこうなっているのか」「いまを生きている自分とは何か」を考える素材なのだと思います。そして、「自分はいまをどのように生きようとするか」、「自分が生きる社会を、どんなかたちにしたいのか」という主体的思いを持って過去の出来事を読み直し、「わたしの歴史観」を再構成していく作業なのではないでしょうか。
ぜひ皆さんも、歴史を学ぶことによって「歴史を疑う目」を養ってほしいと思います。
(2015年掲載)