私たちが生きている世界には、
身近なことから人類全体に関わることまで、
さまざまな問題が溢れています。
意外に知られていない現状や真相を、
本学が誇る教員たちが興味深い視点から
解き明かします。
私はLGBTQに関する人権問題について、法律が果たすべき役割に注目し、国際法・比較法の観点から研究しています。LGBTQの人権保障にまつわる法整備が国際的にどのように進み、何が障壁となっているのかを分析しながら、日本との比較研究を実施。国際社会、特に国連とのかかわり方を考えることが通底するテーマです。
学生時代に地方から東京へ移り住み、さまざまな人々と出会う中で、法律で守られている人・守られていない人の属性や家族関係がある事実を知りました。とくに多様な家族の在り方と法律とがどのように関わっていくべきか、その問題をとても身近に感じて、学部では家族法ゼミを選択しました。その後、大学院で国際人権法を学び、そこで初めて家族と人権と国際社会の諸問題が自分の中で結びつき、現在の研究へとつながっていきました。
国際的な比較において、LGBTQの人権保障の法整備は一律に進むものではなく、その国や地域に根付く制度や文化に左右されます。現在は、LGBTQに関する比較法の中でもアジア地域の共通点を探っています。この地域の法律や裁判例から確認できるのは、家族規範の強さです。個人より家族を大切にするという気風が色濃く存在し、個人主義が制度としても徹底されているヨーロッパ諸国とは明らかに異なります。国単位の法政策に加えて、カミングアウトの問題などは家族からの理解も欠かせません。社会の認識と法政策が必ずしもリンクしないという現状もあります。そういった制度や文化の背景を考慮せずに、ヨーロッパ諸国を理想化して同様の法整備を進めた場合、逆に家族規範が強化され、人権保障という点では後退してしまう可能性があります。
こうした立法や法改正は、それぞれの国の社会のあり方や制度が絡む複雑なプロセスを経由するため、必ずしもスピーディーに実現できるアプローチとは言えませんが、私はその社会的影響力に大きな可能性も感じています。「すべての人の人権を保障するために、社会はこうあるべきだ」と法律が示したり、裁判所が認定したりすることは、その社会が変わるきっかけになり得ます。日本では2023年に「SOGI理解増進法」が施行され、耳目を集めました。内容については不十分な点があることは否めませんが、この法律も、社会規範や人々の認識そのものを変えていく力となりえるものです。
一方で、「守りの漏れ」が生じることは法の限界です。どこかに線を引いて「ここまでは守るけれど、ここからは守れない」というのが法律です。例えば、日本では一定の条件をクリアすれば性別記載は変更できますが、ノンバイナリーの人が望む形での記載や変更の手続きについてはほとんど議論が進んでいません。性別のあり方を気にせずに生きていくことも、日本ではまだ難しい現状があります。基本的人権の尊重が憲法の原則として位置づけられているはずのこの社会でも、法によって見過ごされている人々が存在しています。私があえて法律にこだわるのは、法によって行われる線引きを内側から問い直すことに意義があると考えているからです。
人権問題を研究する中で懸念しているのが、日本では「人権」という言葉に対する根本的な理解が間違っているのではないかという点です。人権とは、言うまでもなく「すべての人間が固有の尊厳に基づいて有する権利と自由」であり、あらゆる人が生まれつきもっているはずのものです。しかし、誤解を恐れずにいえば、日本では多数派の理解がなければ人権は保障されず、人権が何かのバーターで与えられているような感覚が当たり前のようにあるのではないでしょうか。人権が「思いやり」という言葉におきかえて使われてしまいがちな現状は、人権の成立経緯に照らしても、明らかな誤りだといえます。
日本の人権に対する特徴的な感覚はもうひとつあります。それは、差別に対する強烈な拒否反応です。差別は日常的に存在するものですし、人は差別をしながらしか生きていくことはできません。もちろん、だから差別はあっても良い、仕方ない、という話ではありません。誰もが差別者になり得るという前提で、人権をどう実現するか考えなければならないのです。それにもかかわらず、「私は差別なんかしていない」「差別者と言われるのは心外だ」などと否定する方が多いように、自分が何かしらの差別に加担していることの認識があまりにも希薄だと感じています。こうした反発が起こるのは、「人権=思いやり」という誤った理解から法律や制度のあり方に目が向きにくいこと、そのために差別のある日常を生きているという現実を受け止めきれないからのようにも思えます。
誰もが多かれ少なかれ偏見や固定観念をもっていて、社会や制度は少なくない差別を温存しているという事実を受け止め、自分の理解が及びにくい他の属性の人々を感情的に否定せずに、相手の立場や価値観について立ち止まって思いを巡らせる。そして、自分の考えが適切かどうかを絶えず検証しつつ、法や社会のあり方の問題と向き合う視点が必要です。人権とはすべての人が等しく生きる権利のための道具となる概念です。「その生き方は理解できないから認めない」という考えは通用しません。人権の本来の意味を広く共有できれば、多くの人がより生きやすい社会へと近づいていきます。そして、法律や制度の線引きによって一旦外側におかれてしまった人々も声を上げられるように、人権を道具として使いやすいものにしていくことも必要です。
私の研究活動におけるこだわりは、自分の主張を常に批判的にとらえ、過信しないように心がけていることです。論文を執筆し、公刊した後には、それで本当によかったのかどうか、定期的に検討することを自身に課しています。
というのも、人権というものが真の意味で実現する日は、残念ながら、来ないと考えているからです。すべての人間はその属性や特徴にかからわず人権を等しく享有しているのではなく、享有されるべきものです。だからこそ、法や制度による線引き作業を常に再検証しながら、人権を侵害されている可能性のある人々や困難な状況に置かれる人々の日常を直視し続けていく。「人権を守る」ことができたとしても、その次の瞬間には、他の誰かがこぼれ落ちてしまうのが現状です。これからも、こぼれ落ちてしまう人々から目を離さず、その存在を問い続けていくスタンスで研究に取り組みたいと考えています。
近年、LGBTQに関係する話題が大きく取り上げられる機会が増えています。授業で取り上げる際は、学生一人ひとりに異なる固定観念がある中で、学問として客観的に考えてもらうため、複数の視点からアプローチするように指導しています。自分と反対の意見をもつ人に対して、どのような理由でその考えに至ったのかを必ず模索できるように問いかけます。その過程で自身の主張がより強化されることもあれば、逆に足りない部分や問題点が見つかる場合もあるでしょう。また、グループワークでは自分と反対意見の立場で議論するディベート方式をとり、レポートでは裁判官や弁護士、役人などの立場だとしたらどのように回答するかを考えてもらいます。さまざまな視点でものごとをとらえる力を養う機会を豊富に設けています。
ヒューマンライツ学科の専門科目「ヒューマンライツの現場A・B」のように、机上の空論ではなく現実を直視する姿勢は非常に重要です。その半面、注意したいのは「すべてを見た気にならない」ことです。自分が知ったのはあくまで「その現場」だけであって、一般化して考えていいのかどうかは冷静に判断しなければなりません。当事者の話を聞いたとしても、それだけで「こういう属性の人々は○○に困っている」と言い切ってしまうのは危険です。現場を見た上で、さらに「その現場にないもの」に目を向けていく必要があることを、学生の皆さんには理解してほしいと思います。
もう一つ伝えたいのは、日々の疑問や不満を書き留め、忘れずにいてほしいということです。たとえ些細な事柄であっても、それが重要な社会課題に結びついているケースも珍しくありません。きっとどこかで、大学で得た学びの数々が有機的につながり、かつて感じた違和感の正体が明らかになる瞬間が訪れるでしょう。
2022年6月に公刊した著書。第34回尾中郁夫家族法学術奨