私たちが生きている世界には、
身近なことから人類全体に関わることまで、
さまざまな問題が溢れています。
意外に知られていない現状や真相を、
本学が誇る教員たちが興味深い視点から
解き明かします。
家族や親戚、友だちや同僚など。私たちは様々な人間関係の中で生きています。家族や親友のように身近な人間同士でも、お互いをよく理解しているつもりでいたのに、相手を傷つける言動をしてしまったり、相手の言動に傷ついたり…。人間関係がギクシャクしてしまうという経験をしている人は少なくないはずです。
私たちはコミュニケーションを通して、人と人とのつながりを持っています。日本人として生まれ、同じような環境で育った日本人同士でも、コミュニケーションにズレが生じてしまうのであれば、「よりよいコミュニケーション」のために、私たちは一体どうすればいいのでしょう。「よりよいコミュニケーション」を考えるにあたり、まずは異文化間について、考えてみましょう。
私たちは日本とアジアの大学とで異文化コミュニケーションのプロジェクトを進めてきました。「異文化に生きる学生たちがお互いの『ズレ』を通して理解を深めていくこと」が目的のプロジェクトで、私たち青山学院大学は中国の北京師範大学と組み、学生たちに映画やストーリーを題材に議論してもらいました。
映画「あの子を探して」は、代理教員となった少女・ミンジが、町に出稼ぎに行ってしまった子どもを連れ戻さないと、自分の給料が減ってしまうので、いろいろ策をめぐらせます。一方、ストーリーの中では、後輩が先輩にいくら給料をもらっているのかと尋ねます。
実際に中国の学生とコミュニケーションを始める前の準備として、日本の学生だけで映画について議論してもらいました。日本人にとっては「お金」の話はあまりストレートに話題にするものではなく、どちらかと言うと「汚いこと」というイメージがあるようで、学生たちの多くが「お金」に対する中国人の態度に疑問を感じます。しかし議論を重ねていくうちに、なぜ「お金」についてオープンに話すことがいけないのか分からなくなり、むしろ日本人がどうして「お金」の話をしないのか、疑問に感じるようになります。ここで学生たちは異文化について考え、議論することを通して自分の「あたりまえ」を揺さぶられる経験をするのです。
このあと中国での小さなストーリーについて、実際に日本の学生と中国の学生が何週にも渡り意見交換を積み重ねました。最初は相手の意見に強烈な違和感を感じて、それを意見として伝えますが、相手の反応に接しているうちに、自分の「当たり前」が揺らいできます。さらにコミュニケーションを続けていくと、今度は相手の考え方のほうが「正しい」のではないかと思えてくる。でも何か「釈然としない」ところがある。授業では、異文化について安易に「分かる」のではなく、こうした「分かるけど納得できない」という感じを大切にしました。
異文化コミュニケーションを考えるとき、この授業で学生が経験したような「違和感」や「分かるけど納得できない」という感じがとても重要なのではないかと考えます。異文化間でコミュニケーションするときは、相手の考え方や行動にズレや違和感を感じながらも、どこかに接点を探し、対話を続けようとすることがどうしても必要になってくるからです。つまり相手を「他者」だと思いながらコミュニケーションすること。「違う世界で生きているのだから、自分たちが予想もしないことをするだろう」という前提を持ちつつ、相手を理解するための努力を続ける。それでも違うから「ズレ」てしまうが、関係を生み出せるポイントを探してまた理解を試みる。こうした態度は、私たち日本人が地理的に遠い国、例えばアフリカの人たちとコミュニケーションするときには比較的持ちやすいかもしれませんが、同じ「アジア」にいる中国人や韓国人では、どうでしょう。近い地域だから「当たり前」を共有していると感じ、同じだという前提でコミュニケーションをすすめがちではないでしょうか。
日本と中国の経済やビジネス上でのトラブルは、このような価値観や関わり方の違いをめぐるコミュニケーションが機能せず、お互いに自分の「当たり前」に縛れていることに原因があると指摘する研究者もいます。日本も中国も、それぞれ自身のモノの見方が当たり前という前提でコミュニケーションをとり、本当は違う見え方をしているのに、そのことに気がつかず、かみ合っていると思いがちでいること。そしてお互いに気を使っているつもりが、気を使う仕組みが全く違うのでぶつかってしまう。距離感が近ければ近いほど、修復が難しくなり、様々なトラブルを生んでしまうのではないかという見方です。
私がこのような「コミュニケーションのズレ」に注目するようになったのは、「自白」や「目撃証言」、刑事裁判で取り扱われる「供述」を長年研究してきたことと無縁ではないと思います。
私が取り組んできた大きな仕事の一つとして「足利事件」があります。弁護団の依頼を受け、チームで捜査資料や供述調書などの資料を様々な角度から検討し、分析すること2年。犯人とされたS氏の自白が「犯行体験」に基づくものではないもの、つまり「虚偽自白」である可能性を様々な角度から検証しました。しかしなかなか決め手になる分析の視点が見つからず苦しみました。そこを突破するきっかけになったのが、法廷でのS氏と検察官のコミュニケーションにみられた「ズレ」だったのです。
日本の刑事裁判では、犯行の動機が非常に重視されます。「なぜ殺そうと思ったのか」「殺す方法はどうやって決めたのか」「最初から殺すつもりだったのか」。このような質問に対し、被告人には取調室や法廷で詳細な説明が求められます。
第一審では、犯行を認めていたS氏にも動機についての質問が投げかけられました。しかしS氏の応答は質問にかみ合わず、どうしてもズレてしまう。
例えば尋問者が「いつそういう気持ちになったのか」と心的な経験を聞いているのに、S氏は「ゆっくり歩いて行きました」といったような具体的な行為を語ってしまう。このようなコミュニケーションのズレに業を煮やした尋問者は、つい「こんな気持ちが起こったんですね」といった押しつけ型の質問をしてしまう。S氏はそれを否定することもなく「はい」と答える。こうして質問と応答は、いっこうに噛み合ず、ズレたままであるのに、尋問自体は破綻することもなく、最終的には尋問者の推測がそのままS氏の体験の説明として採用されることとなるのです。
こういうやりとりを見ていると、だいたいの人はS氏がコミュニケーション下手で不器用だなと思ってしまいます。最初私たちもそう感じました。しかし、ある時、これをS氏の「個性」としてとらえられないかというアイデアが生まれました。どうしても相手に合わせることができないため、コミュニケーションにズレを生み出してしまう、その人独特の話し方や言葉の選び方としての「個性」です。こう考えてS氏の自白を見直してみると、S氏が実際に体験した出来事を語っているときにみられる「個性」が、足利事件の犯行について語るときにはすっかり消えてしまっていることが分かりました。ここを糸口にして詳細な分析を行い、S氏が実際には犯行を体験していない可能性があることを指摘する報告書を作成して第二審の裁判所に提出しました。
私たちはふつう「コミュニケーション」を「お互いを分かり合うため、伝え合う術」だと考えています。しかし実際にはコミュニケーションにはズレがあふれています。ズレることがコミュニケーションであるとさえ言えるかもしれません。
取り調べ室や法廷での特殊なコミュニケーションにおいては、ズレがえん罪などの悲劇を生むことにつながる場合があります。足利事件の場合も、取調官や裁判官がS氏とのコミュニケーションにかみ合わないところがあると早く気づけば、悲惨な事態を避けられたかもしれません。こういう事態を招かないために、近年、欧米を中心に有害なズレを生み出さない取調べや事情聴取の技術開発や訓練が熱心に行われるようになりました。
日常生活においても、コミュニケーションのズレを感じることなく、分かり合いたいと願うのが普通でしょう。そういう思いを抱えながらも、上手くコミュニケーションができず、そのズレをストレスに感じて生きている人も多いのではないでしょうか。
でも少し考え方を変えてみてはどうでしょうか。安易に「お互いを分かり合おう」と思うから、そのズレに苦しんでしまうのです。相手を「他者」と考え、「自分とは違う存在なんだ」、「もともと分かり合えるなんてない」、「コミュニケーションはズレているもの」を前提にしてみてください。
「コミュニケーションのズレ」は、取調べなどでマイナスに作用すると危険ですが、日常生活では、むしろプラスに働き、クリエイティブな発想のきっかけになることもあります。相手と同じではなく、ズレていることを前提としてコミュニケーションを見直してみると、なかなか面白いものです。普段の会話なども、しっかりコミュニケーションがとれているつもりでも、意外にズレていることは多いのです。でも私たちはつながっている。たとえば居酒屋で盛り上がっている人たちの会話を聞いてみてください。お互い全然違うことを話しているのに、すごく楽しそうなことがあります。「こんなにズレているのに、人はつながっていられるんだ」と思ったほうが楽しくありませんか。
相手がふだん周囲にいる人たちではなく、異なる文化の人たちならなおさらです。よりよい人間関係、社会関係を作るために「コミュニケーションはズレているものだ」と前提にしてみてください。ズレながらつながっている状態をポジティブにとらえることが、よりよいコミュニケーションを作るコツであり、毎日を楽しく生きる術なのではないでしょうか。
(2012年掲載)