私たちが生きている世界には、
身近なことから人類全体に関わることまで、
さまざまな問題が溢れています。
意外に知られていない現状や真相を、
本学が誇る教員たちが興味深い視点から
解き明かします。
私の専攻分野は国際法で、中でも国際人権法を専門としています。国際法は主として国家間の関係を規律する法ですが、現代の国際法では、国家間で結ばれる条約によって、各国が自国で人権を守ることを約束し合うようになっています。国際人権規約、人種差別撤廃条約、女性差別撤廃条約、子どもの権利条約、拷問等禁止条約など、人権保障を目的としているため「人権条約」と呼ばれる多数国間条約がそうです。また、拷問の禁止のように、国が条約に入っていないとしても、慣習国際法として、守らなければならないことが国際社会で認められている決まりもあります。これらの、人権条約やそれを実施するための制度、そして人権に関する慣習国際法などを総称して、国際人権法と言っています。
国際人権法は、ただ国家が約束したというだけでなく、各国がきちんとその内容を実施してこそ意義のあるものなので、国際人権法が各国でどのように実施されているのか、実際の立法や判例を調査して比較・分析しています。さらに、他国の事例を参考にしつつ、日本の人権保障を推進するための施策について法学的観点から検討しています。
私は本学の法学部出身ですが、学生の頃から国家という存在や国家間の関係に関心がありました。日本の憲法だけでなく国際法を学んでより視野を広げようと考え、それ以来国際法分野の勉強を続けています。
学部時代の恩師であり、大学院進学を薦めて下さった菊地元一先生と(2011年)
国際人権法の世界に足を踏み入れるきっかけとなったのは、大学院修士課程に進学してから、ヨーロッパ人権裁判所(「ヨーロッパ人権条約」に基づいて設置された国際裁判所)の判決を原文で読んだことです。特に記憶に残っているのはゴルダー事件判決(1975年)です。刑務所内で起きた暴行事件をめぐる名誉毀損について民事訴訟を提起しようとした受刑者(=ゴルダー氏)が、弁護士との接見や信書の発信を刑務所当局から拒否されたために訴訟を提起できなかったという事件です。ヨーロッパ人権裁判所は、ヨーロッパ人権条約が定める「公正な裁判を受ける権利」について、これはすでに係属中の裁判の公正さを求めているだけではなく、裁判所にアクセスする(=裁判を起こす)権利をも内在している、と広く解釈した判決を下し、ゴルダー氏が勝訴しました。ヨーロッパ人権裁判所は、ヨーロッパ人権条約が人権保障を趣旨・目的とした条約であることから、その趣旨・目的に合致する解釈を採用したのです。なおかつ、条約を広く解釈したといっても、その解釈は大変に論理的に緻密で説得力のあるものでした。このような判決を読んで私は、国際法という手段を使って人権を保障する仕組みとそれを運用する人々に「人類の叡智」を垣間見たような衝撃を覚え、深く感銘を受けたのです。ヨーロッパ人権裁判所の判例にふれたときの感動が、その後私が国際人権法の研究に没頭することになった原点です。
研究においては自分の学問的な信念に忠実に、というのがモットーです。また、海外の研究者との交流や議論の機会を積極的にもつ中で刺激を受け、思考を深めることを常に意識しています。
大学院生時代の1991~93年に留学していたジュネーブを再訪して(2012年)。同窓会の委員になっているため、学生寮の建設現場を特別に見学させていただきました。
法学には暗記型の学問というイメージがあるかもしれませんが、六法全書を暗記する必要などはもちろんなく、大切なのは三段論法に代表される論理的思考力を身につけることです。さらに、「解釈論」にとどまらず「立法論」の議論も欠かせません。解釈論とは既存の法律を事実にどう当てはめるかという話ですが、そもそも法律の規定が存在しないか不十分で、起きている事柄を「法律違反」とする根拠になる法規定がないなど、既存の法解釈では解決できない問題にぶつかる場合があります。例えば日本では、長い間、労働者に時間外労働(=残業)をさせてよい限度について、法律上の規制がありませんでした。現在でも、公立学校の教員の時間外労働については、特別な法律(「給特法」と略称されます)によって、何十時間働こうとも、給与の月額の数パーセントが一律で上乗せされるだけになっているなど、労働者の命や健康を守るための法規制ができていません。このような事柄については、問題意識をもって「どのように法律を改正するべきか」「どのような法律を作るべきか」という立法論の議論に踏み込む思考が必要です。法学は暗記だけでは語れない、とてつもなく奥深い学問なのです。
労働者の人権も国際人権法に関係しますが、国際人権法にかかわって、「それは法律違反である」と明確に指摘できる根拠となる法律がないもう一つの例として、日本には社会生活上の人種差別を禁止する法律がない、ということが挙げられます。憲法14条の「法の下の平等」の規定には人種差別についても言及がありますが、入店拒否、入居拒否、人種差別的ヘイトスピーチといった、私人や団体によって行われる人種差別には、憲法は直接使えません。被害者が裁判で訴えたければ、民法の「不法行為」という一般規定を使うくらいしか方法がないのです。民法の不法行為規定は、故意または過失によって他人の権利または法律上保護される利益を侵害した者は賠償の責任を負う、というものですが、しかしそこでは、人種差別をしてはいけないと明文で書いてあるわけではありません。裁判官がヘイトスピーチなどに当てはめてくれるよう主張するほかないですし、また、人種差別が法律の明文で禁じられているわけではないので、人種差別は違法なことだという規範意識もなかなか社会で広まりません。
人種差別を禁止する法律が存在しないのは、法的に非常に不備のある状況です。先進国と言われる国の大多数には、皮膚の色や民族的出身に基づいて、財やサービス、住宅、教育の提供などにおいて不利益な対応をすることを禁じる法律があり、そのような行為は明確に違法となります。日本は人種差別撤廃条約には入っているのですが、それに応じた国内法の整備ができていません。日本は条約の「自動的受容」体制をとり、国が条約に入れば、官報で公布するだけで自動的に条約が日本国内でも効力をもつ(=現行法になる)のですが、これは一見、良い体制に思えるところ、実際には、国内法整備が必要な場合でもそのまま放っておかれることがある、という状況があります。問題意識をもつ研究者や弁護士の方も多く、学会や研究会でこうした問題がテーマとして取り上げられることもしばしばあります。
ノルウェーの人権教育について調査に行った際、国際人権法分野で著名なアイデ教授と(2011年)
国際人権法がどのように活かされているかは、国際的平面のみでなく各国での実施状況を見なければ分からないので、各国における国内実施状況についての比較法的検討が非常に重要です。私はこれまでヨーロッパ諸国のほか、米国、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、韓国などについて調査したことがありますが、今後もさらに知見を深め、日本にとっての示唆を得たいと考えています。
世界の多くの国には、「国内人権機関(National Human Rights Institution)」という組織があります。これは、政府から独立した立場で、国際人権法の国内実施を含む人権全般について広い任務をもって活動し、人権保障を推進する国家機関です。国によって、「人権委員会」「国家人権委員会」「オンブズマン局」など名称は様々ですが、人権に関する調査研究を基に国や地方の公的機関に勧告を出したり、人権侵害に関する申立を受理して調停を図ったり、訴訟事案では裁判所に対して意見書を提出したり、人権教育の教材を作ったりと、多彩な活動を展開しています。現在、世界120カ国に国内人権機関が設置されており、日本にも設立を求める勧告がなされていますが、設立に至っていません。日本にももちろん裁判所はあり、裁判所の存在は不可欠ですが、一般市民にとってはハードルが高い側面がありますから、国内人権機関が簡易・迅速なかたちで人権侵害について調停を行う意義は大きいです。また、人権に関する包括的な任務をもった国内人権機関が、例えば子どもの貧困や虐待といった広範な人権問題について取り組むための政策提言を行うといった活動は、国の人権状況を底上げしていくために非常に重要な意味をもっています。
2023年、ヨーロッパ人権裁判所の判例を研究している日韓研究者のシンポジウムにて(於・韓国)
現在、世界はもちろん日本においてもさまざまなフィールドでSDGsへの取り組みが広がっています。環境問題がクローズアップされがちですが、「2030アジェンダ」の冒頭にある「誰一人取り残さない」という理念に象徴されるように、SDGsの原則には人権がベースにあります。「貧困をなくそう」「ジェンダー平等を達成しよう」など、SDGsには国際人権法に通じる目標が多く、また、そこでいう人権は、国際人権法の体系を反映して、いわゆる自由権と社会権の双方をカバーしたものになっています。
人権は第二次大戦後の国際社会で共有されてきた基本的な価値であり、国際人権法は現代の国際法でますます重要性を増す法分野になっています。人権は大きな社会的意義を持つテーマであるとともに、自分の権利を守りつつ他者の権利も尊重する姿勢が養われる点において、日常生活に直結する実践的な学問分野であると言えるでしょう。学生一人ひとりが人権を正しく理解・活用し、それぞれが生きる場所で、人権保障を推進するキーパーソンとなることを期待しています。
© S&T Office Tokyo
同窓会活動をいつも温かく支援して下さるスイス大使館にて、スイスの大学の同窓会関係者が集まったお花見イベント(2024年)