私たちが生きている世界には、
身近なことから人類全体に関わることまで、
さまざまな問題が溢れています。
意外に知られていない現状や真相を、
本学が誇る教員たちが興味深い視点から
解き明かします。
アメリカのトランプ前大統領は、良くも悪くもインターネット(とりわけSNS)に適応した人物だったといえます。もともとテレビ番組で司会をしていたくらいですから話術は巧みだったでしょうし、人々に今何がウケるのかを捉える術を直観的に身に付けていたのだろうと思いますが、彼がSNSで使う言葉は、文字で書かれているにも関わらず口語に近いのです。口語、話し言葉に近い言葉使いを基本として、決して難しいことは言わず、短いフレーズで断定的な発言を繰り返します。インターネット空間では日々膨大な情報が流れていて、読者は飽きるとすぐに他に行ってしまうので、長い文章はなかなか読んでもらえません。そのため、文章はどんどん短くなります。日本のネット掲示板などでは「長すぎて読めない」というフレーズが使われ、海外でもTL;DRもしくはTLDR(Too Long, Didn’t Read 長すぎて読まなかった)というフレーズがインターネット空間のスラングとして使われています。
インターネット空間では、特有の「書き込みの技術」のようなものが必要となります。印刷メディアの場合、何かについて思考し、それを的確な文章にまとめあげるための構成を練り、推敲をしながら書き上げ、校正の段階でさらに修正を加えて一つの文章として固定していくというプロセスを経て世の中に発表されます。ところが、インターネットの場合、思いついたことを瞬時にそのまま書くことのほうが優先されます。なぜなら、話題やトレンドが次々に入れ替わっていくため、何かについて熟考して練りに練った文章を1週間かけて書いても、発表する頃にはもう次の話題になっていて誰も注目してくれないという事態が起こるからです。
インターネットメディアのプラットフォームを提供する企業の側も、こうした動きを後押ししています。できるだけ多くの人に簡単に文章の投稿やコメントをしてもらうことが、こうした企業の最大のテーマになっています。アクセスや投稿のハードルを下げることでユーザー数や閲覧数を増やし、広告収入を増やすのが彼らの目的だからです。140文字を上限とする短い文章によるコミュニケーションを基本として生まれたツイッターや、文章ではなく画像をメインとしたインスタグラムなど、インターネットにおけるメディアは「ユーザーの投稿をいかに楽にするのか」を目指して進化してきたといえます。
同時に、ここがインターネットの大きな特徴ですが、発せられた言葉は泡のように一瞬で膨れ上がり、次の瞬間には消えていくのです。話したそばから言葉が消えていくという意味でも、きわめて口語に近いといえます。印刷が主流の時代には決して選ばれなかったであろうトランプ前米大統領のような人物が、インターネットを駆使することで一部の人たちから熱狂的に支持されるようになったのは、彼がインターネットの特性というものを本能的にキャッチしていたからだといえるのではないでしょうか。
トランプ前米大統領が得意とする口語的なコミュニケーションが主流となる社会は、実は印刷技術が登場する以前の中世によく似ているのではないか、というのが私の仮説です。中世では、国民国家のような統一された権力が地域を統治していたわけではなく、宗教や経済、武力などによってバラバラの権力が並び立ち、人々はそれぞれの集団に帰属し、それぞれ異なるルールの中で生きていました。欧州であればローマ法王がいて、王室があり、領主や修道院、商業的なギルドなどの独立性を保った組織がありました。現在に比べると分断された社会だったわけです。
印刷技術が生まれる以前の中世では、人々のコミュニケーションは口語が主流でした。そのため、デマや流言飛語も多く、何が真実なのかが見えづらい世の中でした。インターネットがコミュニケーションの主流となりつつある現在、デマやフェイクニュースが増えていることも、中世との類似性を思わせます。以前、私のゼミナールでフェイクニュースをテーマにしたことがあるのですが、調べていくと、誰かが意図的にデマを流そうとしていたわけではなく、ある発言や写真などが自然発生的に当初とは違う解釈をされ、拡散されていくことで、結果的にフェイクニュースとして広まるケースが多いことが分かりました。そして、最初に誰が発した言葉なのか、誰が解釈を変化させたのか、インターネットでは遡って検証することがほぼ不可能でした。印刷は、そこに書かれていることをずっと後年まで、時間をかけて検証するということを広く可能にしましたが、インターネットが主流の時代は、印刷技術が生まれる以前の中世のような、混沌とした社会になるではないか、というのが私の見立てです。
さらに中世に着目すると、中世から近代へと移行する際、キリスト教の世界では、プロテスタントが印刷という新しいメディアをコミュニケーションツールとして活用することで仲間を増やし、勢力を拡大して宗教改革を促しました。その結果、印刷以前の口語のコミュニケーションを主としたカトリックの言説は、力を失っていきましたが、その逆のようなことが起こりうる可能性も見えてきます。現在のマスメディアの衰退は、印刷をベースにした組織の衰退と考えることができるかもしれません。
これは日本だけでなく世界的な現象ですが、インターネットによるコミュニケーションの伸長とともに、右派が存在感を増し、一方で左派は、自らの理念に反する言葉を取り締まるといったことが頻発し、社会の分断、対立が進んでいます。トランプ前米大統領のように、何かに対する反発を、過激な表現で、すばやく口語的に書き込むやり方は、短い時間での反応の連続という、インターネットのコミュニケーションそのものです。一方で、左派による、失言への集中的な批判、取り締まりも、同じ構造です。どちらも、自分自身の新しい理念や思想を構築し主張しているわけではありません。彼らにとって、自らの考えや感情はあまりに自明で疑う余地がないので、それを書くことはせず、書く能力がないと言い換えてもいいのですが、その考えに基づいた、事象やニュースへの反応を、ただ思いつくままに書くだけなのです。どちらも、相手の存在や理念や反応があってこその書き込みで、自立しているわけではなく、依存し合っています。そこに対立が激化する要因があります。そして、印刷時代のように、長文で自分の論を組み立てて書き表すことができる人は、ごく一部であるのに対して、反応を思いつくままに書くだけ、それをコピーし拡散するだけ、という言論の敷居は圧倒的に低く、スピードも早いのです。
さらに言えば、どちらかと言うと保守、右派のほうがインターネットに合っています。なぜなら、保守というのは、自らの思想を打ち立てるものではなく、変化に対する反発であり何かに対する反応である、という根源的な思想構造自体がインターネットと親和的だからです。同じように右派もナショナリズムを基準とした反応です。トランプ前米大統領のみならず、フィリピンのドゥテルテ大統領やブラジルのボルソナーロ大統領など、世界各地で過激な表現を用いる右派の大統領が生まれています。こうした背景には、左派の思想を支えてきたマルクス主義の衰退や、グローバル化による格差、移民の問題など、さまざまな要因が取り沙汰されていますが、私はインターネットの影響が非常に大きいと見ています。彼らが、分かりやすく、短く、口語の過激な表現で、普通の人が批判を恐れて決して言えない反発を表現しつつも成功していることは、インターネット的であるだけでなく、一部の人々にとっては英雄行為なのです。新聞や雑誌などを持つ大手企業がメディアを独占していた時代は、その企業が内容の品質を保証し、内容をジャッジして取捨選択していました。しかし、インターネットの時代になるとそうした「ふるいにかける」過程がなくなり、誰もが自由に思ったことをそのまま発信することができます。こうした既存メディアとインターネットの特性の違いを、人々は、日々、目の当たりにし、それがマスコミ批判を生み出しました。マスコミと右派が使うインターネットの対比、産業としてのマスコミの衰退とインターネットの伸長、これも右傾化の背景にあります。
こうした流れはインターネットの台頭に伴う世界的な傾向であり、それを否定し排除しようとしても困難ですし、私自身も単純にそれを批判するようなことはしたくありません。インターネット空間においては、「よく考えてから書こう」とか「きちんと検証してから発言しよう」という物言いは、もはや無意味だといえます。印刷主流の時代の規範をインターネットの時代にそのまま適用させるのは事実上、不可能です。こうした流れに抗うことは誰もできないという、言い換えると諦めに近い感覚が私にはあります。だからこそ、このような「インターネット時代の情報のあり方」を前提とした社会はこれからどうなっていくのだろうというところに私の興味、関心がありますし、問題に対応できる可能性として、インターネットのアーキテクチャの柔軟性に希望を感じています。一方で、インターネットの言論空間で起きていることと現実社会とがどこまでイコールなのか、あるいは乖離しているのかという点にも興味を持っています。つまり、インターネットの世界では右傾化が進展しているように見えても、現実社会の統計では必ずしもそうとはいえないという研究結果が出ることもあるため、こうした差異についても注目しているところです。
インターネットが台頭し始めた1990年代半ばから2000年代のはじめ、これまでメディアを独占していた新聞・テレビ・ラジオなどに対抗して、誰もが自由に発信できる民主的なメディアとして、インターネットは一種のユートピア的な場のように語られることがありました。そして、今までマイナーだと思われていた存在の人たちがインターネットを通じて仲間を見つけるなど、そこに新しい希望の芽を見出そうとするケースもありました。一方ではさまざまな場所で分断が生まれ、国民国家などよりも自分と同じ考えや価値観を持つ小集団を重んじる人たちも増え始めましたが、その最たる例がイスラム過激派組織「ISIL(イスラム国)」です。
インターネットは必ずしもばら色の未来をもたらしてくれる存在ではありません。しかし、これは多くの既存メディアが辿った道でもあります。新しいメディアが誕生した当初は「これで世界が変わる」ともてはやされ、やがてそのメディアが持つ弊害が明らかになり、時間の経過とともに制度化され、他の新しいメディアの台頭によって影が薄くなっていく。インターネットもやがてテレビやラジオ、新聞のように制度化されて安定した存在になり、誰も熱く語ることはなくなっていきます。逆に言えば、今こそ、インターネットが面白い時なのです。
インターネットが主流の時代になるとき、それでは大学という場所はどのような存在であるべきなのでしょうか。大学という「知の組織」を支えているのは、今でも論文や研究書など、印刷物が主流です。写真の登場によって絵画の役割が変わり、テレビの登場で映画やラジオの役割が変化を促されたように、インターネットという新しいメディアの台頭は、知と学問の領域にどのような変化をもたらすのか。これは、とても大きな課題だと思います。
過去を振り返ると、印刷技術は、教育のあり方も変えました。印刷以前の教育は、基本的に問答によってなされていました。これは欧州だけでなく日本においても同様で、まず基本的なことを生徒が暗記して、きちんと覚えたかどうかを先生が生徒に質問をして、生徒が答えるという暗記プラス質疑応答スタイルです。ですから、わざわざ試験・テストをしなくても、先生はその生徒の習熟度を把握できていました。印刷技術によってテキストがつくられるようになると、先生はすべてを説明する必要はなく、生徒もすべてを暗記する必要がなくなり、生徒は自習ができるようになります。こうなると、各生徒の習熟度が見えにくくなるため試験が必要になるわけです。このように、印刷=テキストの登場によって教育の仕組み自体が大きく変わりましたが、では、インターネット時代の教育はどうあるべきなのか、私もいろいろと模索をしているところです。
実際のところ、インターネット時代のリテラシーのような部分は学生のほうが詳しいだろうと思います。だからこそ印刷のコミュニケーションを用いた「旧世界の知識」をしっかりと教えることが、むしろ彼らのためになるのではないか、そこに現在の大学教育の意味がある、逆説的ですが、そんな風に考える時があります。口語的なコミュニケーションが主流になるとしても、印刷的・文章的なコミュニケーションがなくなるわけではありません。これまでの役割とは違う形で生き残っていくのだろうと思います。
地球社会共生学部には、たとえば貧困や水問題、環境問題など、具体的なテーマに関心を持ち、使命感を持つ学生が多くいて、それは本当に素晴らしいことです。そして、そういう学生こそ、現在、起こっているリアルなことだけでなく、そこから一歩引いた射程の長い視点も持ってほしいな、と思っています。そうした射程の長い視点で物事を捉えることは、今後、人生のさまざまな局面で迷ったり、悩んだりしたときだけでなく、大きな仕事を成し遂げるための一助にもなります。社会に出れば、日々、目の前にある業務に追われることになるので、こうした視点を育むのは大学時代にしかできないことでしょう。特に海外の知識人と付き合うときには、単にその仕事の現場のことを知っているだけでなく、いかに豊かな教養があるのかが問われます。その問題がどのような背景から生まれているのか、その背景はなぜ形成されているのか、一歩引いた視点で大きく深く捉えることは、世界を変えていくために必要なことです。具体的で実習的な授業も大切ですが、思想というか、大きな物語というものが世の中から少なくなりつつある今だからこそ、大学時代にはそうした価値観に触れる機会を大切にしてほしいなと思います。
昨今、「文系不要論」なども囁かれていますが、これはつまり「今の文系は面白くない」と言われているのだと私は解釈しています。たとえ批判があったとしても、もっと議論を呼ぶように大きな話をすべきではないか。それが「面白い文系」なのではないかと私は考えています。統計などで社会の現状を客観的に知ることは非常に大切ですが、一方で、批判を恐れずに、その先を見通すような新たな価値観を世の中に提示する勇気をもつこと。これが、いま文系に課せられたテーマだと思っています。(2021年6月掲載)