私たちが生きている世界には、
身近なことから人類全体に関わることまで、
さまざまな問題が溢れています。
意外に知られていない現状や真相を、
本学が誇る教員たちが興味深い視点から
解き明かします。
「サウンドスケープ<soundscape>」——みなさんには、まだちょっと耳慣れない単語かもしれません。「サウンドスケープ」とは、音を意味する「サウンド」と、眺め・景色を意味する接尾辞「スケープ」との複合語。カナダの現代音楽作曲家であり、音楽教育家・環境思想家でもあるR・マリー・シェーファーによって1960年代末に提唱されたものです。
サウンドスケープは、一般に「音の風景」と訳されますが、この考え方は、音の風景に気づき、聴く文化を大切にするというだけの、単純なものではありません。この言葉を通じて、私たちは先ず、身近な風景の美学や、生活における豊かな音の文化を思い起こすことができます。さらに、さまざまな時代に特定の地域の人々が音の世界を通じて自分たちの環境と取り結んだ関係を問題にし、その関係の取り結び方をその土地固有の「文化」として捉え直すことができるようにもなります。
通常は「視覚優位」で過ごしているため、私たちは音の世界に関してとかく無意識になりがちです。そうしたなかで、サウンドスケープという言葉は、私たちの聴覚的な感性や思考を高めてくれます。また「ランドスケープ」に対し、サウンドスケープが捉える環境はカタチに留まることがありません。つまり「形を超えたものを捉える」ということから、私たちは土地それぞれの記憶や来歴などにも想いを馳せることになるのです。
私は現在、この考え方を用いて、現実の都市をフィールドとしながら「新たなまちづくり」の活動に参加しています。これまで都市のデザインと言うと、都市の見た目の設計等に美的なものを加えるということが一般的な考え方でした。しかし最近のアーバンデザインは、土地の文化や歴史を地域資源の一部として捉え、そこに住んでいる人や訪れる人たちが、その土地とどのように関わっていけるかということを大切にするようになっています。そうしたデザイン活動においては、目に見えないものを対象とするサウンドスケープの考え方とその手法は、とても役立ちます。それは現在を基軸に、土地の記憶を掘り起こしながら、過去と未来をつなげていこうとするものなのです。
サウンドスケープ研究が基本とする調査手法は「野外調査/フィールドワーク」です。都市の歴史を問題とする場合、過去の物は見た目の景観との一部として後世に残っていることが多く、研究しやすいのに対して、音は形に残りません。では過去の音についてはどのように調査するのかと言うと、サウンドスケープ研究には「ear witness(耳の証人)」という手法があります。これは「目撃者」を意味する「eyewitness」からの造語で、特定の場所で聞かれた音の記述を含む文学作品や日記、詩歌などのテキストを意味します。それを手掛かりとして過去の音風景を調査し、そこからその土地の記憶をひも解いていくのです。
渋谷にはかつて、多くの文豪たちが住んでいたということをご存知でしょうか? たとえば明治時代、道玄坂には、歌集「乱れ髪」を出した頃の与謝野晶子が、鉄幹と共に住んでいました。当時、彼女が書いた手紙には、落ち栗を拾った、宮益坂を行く人々や荷車の音が聞こえたなどという“音”にまつわる記述を散見することができます。また現在のNHK放送センターそばには、国木田独歩の住居があって、独歩の『武蔵野』には彼がそこで聴いた雑木林の音風景が綴られています。
今は多くの若者であふれる渋谷のまちですが、こうした記述を読みながらそれぞれの場所を訪ねると、音の風景を通じて、渋谷の過去から現在への変化を実感することができます。そこからさらに、未来の渋谷へと思いをつなぐこともできるのです。こうした活動を「渋谷音聴き歩き(リスニングウォーク)」と呼んで、ゼミの指導にも取り入れています。サウンドスケープ研究ではこのように、音を窓口としてその背景にあるまちや環境、さらにはそうした風景を聴き取った人間を考察することになるのです。
これをさらに展開して、ゼミ生たちに自分自身の関心のある特定のテーマを設定して渋谷のまち歩きをしてもらい、自分ならではの「まち歩きルート」を開発するというプロジェクトも実施しています。同じゼミのある学生は渋谷駅周辺の「教会」をめぐるルートを、また別の学生は「音楽ホール」を、さらに別の学生は「坂」をテーマにしたまち歩きルートをつくりました。
同じ場所に居ても、音の聞こえかた、音風景の読み取りかたが人によって異なるように、渋谷という同じまちを楽しむルートでも、主体が対象地域をどう読み込むかによって、できあがってくるものは実に多様です。ここから、他人と一緒に歩くことの面白さや、コミュニケーションの大切さを理解することにもなります。
渋谷では今、駅とその周辺地域で再開発が進んでいますが、そこに新宿や池袋と同じようなまちができあがっては困ります。個性豊かな多様なまちがあるからこそ、都市は魅力的になるのです。そのような想いから、渋谷のまちのなかでも、道玄坂を上って右手にある「百軒店」と呼ばれるエリアを舞台に、<SCAPEWORKS百軒店>というプロジェクトを展開しています。これは2009年から現在に至るまで継続して行っているものです。
百軒店は1950年代後~60年代の初めくらいまでは、渋谷っ子が映画を観るといったら必ず足を運んだ場所。’60~70年代は、名曲喫茶やジャズ喫茶などが軒を連ねるサブカルチャーのメッカでした。そうしたディープな渋谷の魅力がこのエリアに蓄積され、その記憶が今も残っています。かつての渋谷の都市文化の中心地・百軒店で、渋谷のまちの遺伝子を探り、その情報を発信していくことで、渋谷独自の個性や文化をこれからの再開発事業につなげていくことを目的としたアートによるまちづくり活動、それが<SCAPEWORKS百軒店>です。
ランドスケープという言葉に「造園」という意味があるように、「サウンドスケープ」もまた、音風景の創造、音の世界からの環境デザインという意味や行為を含みます。その事例として、私が実際に携わった、サウンドスケープからの庭づくりとその関連プロジェクトをご紹介しましょう。
大分県竹田市にある瀧廉太郎記念館は、瀧廉太郎が少年時代に過ごした旧宅を復元・活用したものです。今から30年近く前になりますが、当時熊本大学の教授だった建築家の故木島安史先生から、その旧宅で「音環境にこだわった庭づくりをしてほしい」という依頼を受けました。
まず始めたのが、当時の庭の音風景についての調査です。旧宅に何度も足を運び、旧宅と周囲の環境特性について調査を行いました。また、近所の人々や廉太郎のゆかりの方々に、ここでかつて聞こえていた音についてもお話しをうかがい、廉太郎の暮らしなどについて書かれた文献にもあたりました。それらの調査を通じてわかったことは、当時の竹田は、九州の小京都として、城下町のしっとりとした風情をたたえた文化の香り高いまちだったということです。その名の通り、竹が多く生え、旧宅の裏山は竹やぶで、風にしなる竹の音や、サラサラと風にゆれる木の葉の音に包まれていました。そして庭にはスズメやウグイスなどの小鳥が訪れ、縁の下にはキツネの親子が住んでいました。また家の前を流れていた溝川からはときおり「おさん」という妖怪がたてるとされた「ボコボコ」という音も聞こえた、といった話も発掘することができました。
そこで、デザイン手法としては記念館の庭には孟宗竹を多数入れ、裏山への石段を発掘・復元して、少年廉太郎が聞いた竹林の響きを復元しました。また実のなる木を植えて小鳥たちが庭に訪れるよう工夫をする一方、溝川から庭に水を引き込んで、その流れに段差をつけることで、水の流れる音が家の中でも聞こえるようにしました。また当時の履物は主に下駄だったので、来館者が廉太郎も履いていたはずの下駄の音を追体験できるよう、下駄で庭に降りられるようにしました。飛び石や縁石には地元の石を使用して、実際にカランコロンと歩きながら、その感触を通じて、廉太郎が育った庭の音を体験できるようにしたのです。
この庭づくりの関連プロジェクトとして行ったのが「竹田・廉太郎マップ」の作成です。これは、記念館を訪れた人が、少年時代の廉太郎がよく訪れた場所、即ちまちのさまざまな音と関係を結んだ地点を示した地図です。こちらは3年前に竹田市から新たに依頼を受け、その地図も含めた小冊子等を作成し、記念館に置くことができるようになりました。これは「音」というメディアを通じて、廉太郎記念館を敷地外のより広範囲なまち全体へとつなげていくことを目指した展開方法。言い換えれば、この記念館の庭園整備を、敷地という閉ざされた空間のみを対象としたプロジェクトに留めず、「竹田のまちづくり」全体へとつなげていくことを目指したものです。
そうしたなか、岡藩の最後の藩主・中川久成が最後に住んだ場所が、現在は渋谷の百軒店になっていることがわかりました。その証拠として、中川伯爵邸が箱根土地(西武系列の会社の前身)に売却された際、その敷地内にあったお稲荷さんは、今でも中川稲荷として千代田稲荷神社に合祀されています。
竹田と渋谷は遠く離れていますが、思いもかけないつながりがあることがわかり、2013年の<SCAPEWORKS百軒店>では、竹田市長を招き、現在竹田で行われている2万本におよぶ竹灯籠が並ぶ「竹楽(ちくらく)」というイベントの紹介なども行いました。
土地にはさまざまな歴史があり、記憶があります。サウンドスケープという考え方を用いれば、とかく埋もれてしまいがちなそうした環境文化資源に対して、さまざまなアプローチができるようになります。サウンドスケープという考え方によって可能になる、研究その他の活動の面白さを、学生を含めた多くの人々に伝えていきたいと思っています。
(2016年掲載)