私たちが生きている世界には、
身近なことから人類全体に関わることまで、
さまざまな問題が溢れています。
意外に知られていない現状や真相を、
本学が誇る教員たちが興味深い視点から
解き明かします。
あなたの地元の商店街は、今元気ですか? 小さい頃は商店街のおじさん、おばさんとあいさつしたり、お話したり、たまに怒られたり。まちには人があふれ活気に満ちていた商店街は、いつの間にかシャッターがしまったままのお店がずらり。そんなまちが多いのではないでしょうか? もうすでに商店街ではなくて、大型ショッピングモールが当たり前に育った方も多いでしょう。
そのように地域商業に陰りが見え始めたのは1980年頃からです。1970年代後半から大型小売業・大手5社(当時のダイエー、イトーヨーカ堂、西友、ジャスコ、ニチイ)が出店競争をくりひろげ、地方市場へ進出し、地方スーパーや商店街を浸食しはじめ、その様子は当時「流通戦国時代」と言われていました。このような大型小売業の進出は、地域商業に様々な問題を生じさせましたが、問題が深刻化した最大の要因は、車社会の発展(モータリゼーション)です。
日本は中小小売業を社会基盤として考え、「中小小売商業振興策」と「流通近代化政策」を2本柱としてしっかりとやってきた国です。図のように「車社会の発展」が、「買い物行動の変化」、「郊外への人口移動」、「大型小売業の郊外出店」など、社会に様々な変化を起こし、まちの商店街がだんだん陰りをみせていきました。そして、1990年代から今日までの20年間でさらに急激な変化を見せたのです。その急激な変化の背景を考えるとき、「大規模小売店舗法(2000年6月廃止、以下「大店法」)」の存在は無視できません。
「大店法」は、「大型小売業」と「中小小売業」との摩擦を緩和し、対立を調整することを目的とした法律でした。大型小売業(一定規模以上の大規模小売店舗)の出店において、店舗面積、閉店時間、休業日数、開店日を調整していました。「大店法」があるため、大型店が出店するときには、必ず地域の意見が反映されることになります。そのため、調整に時間がかかるとか、調整過程が不透明という問題がありましたが、大型小売業の出店による地域商業への影響を抑制することが求められていたのです。
商業調整政策として、戦前の「第一次百貨店法」、戦後の「第二次百貨店法」の流れをくみ、日本の地域商業のあり方を規定してきたのが「大店法」でした。日本独自の制度で、日本の流通の特殊性を象徴するものとして、実は評判はよくありませんでした。
1980年代半ば、日米貿易の不均衡を是正するため、日本の市場開放が求められたとき、「大店法」があるために、海外の大型小売業が日本に進出しにくいと批判され、1989年からの日米構造協議において、大店法の規制緩和が課題として提示されたのです。また、国内でも「大店法」があるために「自由な企業活動に歯止めがかかっていた」「日本の流通業の革新的な発展を抑制していた」「構造改革を遅らせた」などと批判されていました。
しかしながら「大店法」に一定の意義を認めるべきとの声もありました。大店法には中小小売業を保護する側面があることは確かです。ただし、そこには、流通近代化の過程で生じる急激な変化による悪影響をおさえ、構造改革を円滑に進めたいとの意図もありました。1973年の大店法の成立と同時に、中小小売業の経営基盤を強化し、健全な発展を図ることを目的とする「中小小売商業振興法」が成立しているのはそのためです。
また、1980年代半ばから、大型小売業と中小小売業とを対立的に捉えるのではなく、共存し協力することで、まち全体の魅力を高めていくべきとの考え方も浮上してきました。郊外出店によるまちの中心部の大型小売業の不振そして撤退が、まちの衰退に拍車をかけることも理解されるようになりました。「大店法」の限界が認識されるとともに、地域商業のあり方を見直す必要があるという声もでてきたのです。
国内で意見が二分していた「大店法」ですが、日米構造協議をひとつの契機として、1991年に改正、1994年には運用の改善が行われました。この改正や改善により、大型小売業の出店の自由度は大きく高まりました。それが、1990年代の大型小売業の出店ラッシュをうみ、ますます地域商業の陰りが加速していく結果となったのです。グローバル化のもとでは国内制度であってもその透明性が求められます。また、無秩序な郊外出店が原因でおこる交通混雑や環境への悪影響も懸念されるようになりました。車を使った買い物の利便性が求められる一方で、シャッター街となった商店街が増えることで、まちなかに居住している消費者の買い物の不便さが表面化するようになりました。いわゆる買い物弱者の問題です。このような問題に対して大店法は無力でした。
そこで政府は、専門家を集め、1990年前半には欧米諸国(特にアメリカ、ドイツ、イギリス、フランス)の大型店政策について集中的に調査や研究を行いました。そこで見えてきたのは、地域社会や環境問題への配慮を軸にした総合的な地域商業政策の必要性でした。そして「大店法」は時代の変化とともにその役割を終えたのです。
欧米諸国の研究を参考にして、大店法に代わり「まちづくり三法」が成立しました。環境規制の「大店立地法」、まちづくり活動を支援する「中心市街地活性化法」、立地を規制する「改正都市計画法」の3つから成っています。
空洞化した商店街の再生として、「まちづくり三法」が成立し、まだ10年弱ですが、まちづくりを成功させるための要件が見えてきたように思います。
第一に、まちの中に「出会いの交流拠点を作る」ことです。一昔前を考えてみても、商店街は買い物をするだけでなく、人との交流の場、出会いの場でしたね。そのために、農産物の直売、お祭り、音楽会や演劇などのイベントを催し、まちなかが生活を楽しむ場となることが、まち再生の第一歩と言えます。
第二に、生活を支援する「都市機能を回復させる」ことです。市役所、病院や診療所、郵便局、幼稚園や保育園、図書館など、小売業と関係ないように見えますが、これらが一体となってまちを構成し、まちの魅力を作り上げているのです。
第三に、「まち中の居住を促進すること」です。日本の都市は中心部の地価が高く住宅開発が難しいという問題があります。それだけに、平均的所得層の若夫婦などがまちの中に住めるように、安くて優良な住宅を提供することが政策的に求められています。住む人が増えれば、買い物をする人は自然に増えます。商店街に活気が戻ってくるでしょう。また、商店街の空き店舗を「少し資金があるからお店をやってみたい」という若い世代に貸したり、空き家を若い夫婦に貸したりという工夫が必要です。都市の生活基盤を維持していくために、政策的な誘導が必要なのです。
まちづくりが軌道に乗り始めた地域をみると、まち全体がチームになっていることが分かります。イベントを企画したり、地域ブランドを開発したり、地域の食材を使った料理や菓子を提供したりという多様な活動があります。そのような活動に、商品企画やデザイン、マーケティングなどの専門家が加わることで、より魅力的な商品開発や包装デザイン、広告、イベント企画、空き店舗の有効利用などが可能になりました。そのような地元の活動が面白いと感じ、若い世代が帰って来たり、有名デザイナーが地域に根付いたりと、地域に人の輪が広がってきています。そして、これらが地域ビジネスとして雇用を生み、地域の自立性に繋がっていくことが次なる課題となっています。
まちなか再生に明るい兆しが見えているのは、まだまだごく一部です。しかしそこには再生のチャンスが転がっています。
1980年代から大型小売業が続々出店したときは、消費者の多くは郊外の大型店に流れてしまいました。大量仕入れで安さにこだわった大型店の魅力がそこにはありましたし、食品のほかに洋服や靴など何でも揃うという、大型店ならではの便利さもあったでしょう。車を使った買い物の利便性もありました。
しかし1990年代半ばから、「少しでも安心でおいしいものを食べたい」と味や品質にこだわる消費者が増えてきました。また、伝統食の見直しや食の大切さを子供達に教えたいという人々の運動が広がっています。消費者の意識や価値観が変化してきたのです。そこでは、中小小売業の個性や独自性が生きてきます。地産地消の食材を使った限定商品やオリジナリティあふれる商品を生産者とともに開発し販売したり、また顧客との日常的な会話から強い信頼関係を構築し、顧客の好みなどを熟知して品揃えを工夫することもできます。小売業の基本中の基本「いい顧客」と「いい仕入れ先」を徹底すれば、中小小売業が復活するチャンスは十分にあります。
「大店法」から「まちづくり三法」への地域商業政策の転換は、日本が成熟した市民社会へ脱皮していく過程でもあります。その意味で「失われた20年」ではなく、ゆっくり時間をかけながら日本社会が新しいステージに移行していくためのとても大切な「転換期」であったと考えています。
今回は、地域商業政策を通して「流通」についてお話しました。1980年代から今までの約30年間は、日本の「流通」にとっては激動の時代でした。大型小売業と中小小売業の関係だけでなく、「地域社会の衰退」、「価値観の変化」、「グローバル化」、「日本の産業構造の変化」までからんだ大きな次元の話であったことがお分かりいただけましたでしょうか。
「流通」は消費者の価値観の変化をそのまま反映しています。生活の変化に合わせて変わるのが「流通」であり、そのような「流通の面白さ」に少しでも興味をもってもらえたらうれしく思います。
(2012年掲載)