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解き明かします。
2012年のNHK大河ドラマと言えば「平清盛」ですね。戦国や幕末などと比べてしまうと、この時代の知名度が低いのはわかりますが、平清盛を知らないという人もいるそうで、正直ちょっとショックだったりしています。今回の大河ドラマでは、武士として初めて国家の頂点に登りつめ、新しい時代を切り開こうとした英雄として「平清盛」が描かれていくことでしょう。それはもちろん、史実や文献に基づいたフィクションであるわけで、このような歴史もののドラマが製作されるときは、様々な歴史書や文学作品などが参考にされます。今回の「平清盛」の場合、それらの参考資料の中で、やはり『平家物語』の存在は大きいと言えるでしょう。
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」の語り始めは、誰もが一度は聞いたり読んだりしたことがあるでしょう。この語りで始まる『平家物語』は、「栄華を極めた平家が、なぜ滅んでしまったのか」をテーマとした物語です。前半の6巻で、「平家が滅んだのは清盛の悪行のせい」とし、その原因「なぜ」を描き、後半で、平家が「どのように」滅亡したのか、その結果を描いています。
物語全体に大きく影響しているのは、後白河法皇の存在です。後白河法皇が直接描かれる場面は多くないのですが、法皇との関係をめぐって物語が展開していき、後白河寄りの立場が「正義」となります。清盛と後白河は、途中まではいい関係だったのに、物語の始まりにあたる時期の1170年代後半になると、急速に関係が悪化していく背景があります。これを考慮に入れつつ「清盛の悪行」を読み解いていくと、その悪行の数々は、単に「後白河寄りかそうでないか」という観点から見ることもできるでしょう。例えば、後白河を幽閉したこと(法皇被流[ほうおうながされ]:巻第三)では、確かに幽閉はしたけど、危害を加えたわけではないですし、福原に遷都したこと(都遷[みやこうつり]:巻第四)も、大河ドラマの時代考証をしている高橋昌明先生などのように、「日宋貿易という大きな夢をもち、新しい豊かな時代を切り開くために都を移した」という見方もできます。
史実の問題は別として、確かに清盛を「悪行の人」として描いている『平家物語』ですが、ただ清盛の悪口を言っているわけではなく、常人のスケールではとうてい想像も及ばない、巨大な「不思議の人」として描き出そうとしています。それでは、平家の滅亡までを描く『平家物語』を紹介するとしましょう。
『平家物語』には、細かく数えていくと千人もの人物が登場し、それぞれが様々な生き方を見せます。まずは『平家物語』の主要人物を紹介します。下の表をご覧ください。この8人を中心に、その他の登場人物との関係性を整理していくと分かりやすいでしょう。
早速、前半を紹介します。前半は、平清盛が平家の栄華を極め、そのため様々な方面から反感をもたれ、清盛が熱病で亡くなるまでを描きます。前半では、清盛の悪行が多々語られるわけですが、虚構もあります。
「清盛の孫(重盛の二男)の資盛が、摂政殿下・藤原基房の行列に出会い、馬から下りる礼儀を怠ったために、馬から引きずりおろされ恥をかかされた。それに激怒した清盛が、藤原基房一行を待ちぶせして、仕返しをした」(殿下乗合[てんがののりあい]:巻第一)
清盛がいかにも横暴な感じがしますが、実は仕返しをしたのは清盛ではなく重盛であると、歴史の記録にはっきりと残っています。『平家物語』で語られる重盛は、非常に道徳的で、物事を正しく判断し、父のブレーキ役として活躍し、重盛が早く亡くなることで、父・清盛の暴走が始まったとされています。しかし、このように面子にこだわって報復したことを知ると、重盛のイメージが変わりますね。
『平家物語』に描かれる清盛の行動は、孫思いの人間くさい心情によるとも言えるでしょうが、人間くさいと言えば、こんな話もあります。
「後白河の側近で、法勝寺という大きな寺の責任者だった俊寛が、陰謀が発覚したため、清盛によって鬼界ヶ島に流刑された。鬼界ヶ島に一人残されることになった俊寛は、赤子がだだをこねるように手足をばたつかせ、号泣し、一人にしないでほしいと懇願した」(足摺[あしずり]:巻第三)
当時では超一流のお寺の頂点にいて、誰からも敬われていた俊寛が、孤島に一人きりになるという、死に直結するような極限状態の中で、人間の無力な姿をさらけ出し、だだをこねて号泣しているのです。その姿はみじめ極まりないのですが、人間というのは本来そういうものなのかもしれません。このように人の弱さを全面に出し人間くささを描いているところがおもしろいと思いませんか。
『平家物語』の有名なエピソードは、実は、清盛が亡くなってから平家がどのように滅びていくかを描く後半の方に多くあります。
「平家軍が総崩れになり退却する途中、源氏勢の武士・熊谷直実は、海に逃げ込んだ若武者を呼び戻し、押さえつけて首をかききろうとするが、相手の顔を見た瞬間、殺せなくなってしまう。自分の息子と同じぐらいの年であり、非常に優美な公達であったからだ。しかし、源氏の軍勢が押し寄せてくる前に、自分が切って供養しようと、泣き泣き首を切る。この若武者は、清盛の弟・経盛の末っ子で、平敦盛であった」(敦盛最後[あつもりさいご]:巻第九)
このように人を殺すことをためらい、一旦は相手を殺せなくなってしまうという記述は、世界中の古典的な戦争文学を見てもほとんどないと思います。原文での「顔を見た瞬間、殺せなくなる」シーンの描写は実に見事です。あの時代に、人を殺すことや戦争がいかに非人間的なのかをきちんと描いている『平家物語』が日本にあるということは、世界に誇りうることと思います。
次の場面は、『平家物語』をあまり知らない人でも聞いた事はあるでしょう。
「壇ノ浦の戦い。平家の敗北が濃厚になり、もはやこれまでと覚悟した時子。涙ながらに、8歳になる孫の安徳天皇を抱き、『波の底にも都は候ぞ』と説き、海に身投げする」(先帝身投:巻第十一)
一般的には、時子が安徳天皇に「波の下にも都があるんだよ」と教えて入水したとされていますが、必ずしもそうではありません。時子の立場としては、平安京では三種の神器なしに後鳥羽が即位したけれど、それは偽の王であって、真の天皇は安徳天皇であり、安徳天皇がいるところが都である。だから、この後は、私たちが行く海底こそが都になるのだと。少なくとも時子は、自分たちが正当な政権であると主張しながら死んでいったということです。
平家滅亡後、巨大地震が起こりました。(大地震[だいじしん]:巻第十二)。これは清盛が龍になって起こしたといわれました。当時の人々は、平家一門が海底の竜宮城の中で生き延び、地上の社会を狙っていると、恐怖におびえていたのです。『平家物語』は、平家が滅亡するまでを描いていますが、清盛以外の平家一門のほとんどには同情的であり、その魂を慰めようとしているのが読み取れます。「平家の滅亡は清盛の作った悪因のせいだ、その他の人々は気の毒な犠牲者だ」と、生き残った人々にも、亡くなった平家一門の魂にも、語りかけ、言い聞かせているのでしょうね。
『平家物語』は、1180年代に平家が滅びた後、1230年代頃までに物語ができたであろうと考えられています。当時から源平の戦いは国民の興味を引くものであり、当時のメディア的存在「琵琶法師」が琵琶を弾きながら語り歩き、人気だったといいます。一方、貴族社会では源平関連の日記のようなものができ、そのような様々な語りや文献が編成されて『平家物語』ができたということです。そのため、文体や文章のリズム感が場面場面で違っていたり、それぞれの話が完結していて、1話1話に違った魅力があるところも面白さと言えるでしょう。
源平時代から興味関心が高かった『平家物語』ですが、「中世にできた文学作品」という枠を超え、その後、非常に様々なメディアが取り上げ続けています。例えば、「能」や「歌舞伎」の演目になっていたり、「テレビドラマ」や「映画」、「アニメ」や「まんが」など、本当にたくさんの平家物語が存在します。
戦国時代の武将・織田信長は、「幸若舞」という語りを伴う舞の「敦盛」を特に好みました。「敦盛最後(あつもりさいご)」(巻第九)を題材にした曲で、敦盛を殺してしまったことを悔やみ、出家した熊谷直実が世をはかなむ場面に、このような一節があります。
「人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり(人の世の50年の歳月は、天人の世界の一日にしかあたらない)」
この言葉は広く知られ、織田信長の言葉だと思っている人もいるかもしれませんが、実は平家物語から派生した作品の中の一節なのです。
他にも「足摺(あしずり)」(巻第三)で登場する俊寛を主人公にした浄瑠璃や歌舞伎「平家女護島」が江戸時代に作られ、近代文学作家・芥川龍之介や菊池寛も「俊寛」という作品を書いたりしています。面白いのは、『平家物語』ではひたすらみじめな俊寛ですが、歌舞伎の演目や芥川・菊池が描く俊寛は、とても立派に描かれているところです。このように作品ごとにキャラクターが変わることはよくあり、それぞれの時代の考え方や感じ方が読み取れて、大変興味深いところです。
800年以上にわたり様々な展開をみせ、日本文化に非常に大きな広がりを持っている『平家物語』に、少しは興味を持っていただけましたでしょうか。先にお話した通り、1話1話完結型ですので、興味を持った場面からで構いません。少しずつでも読んでいただき、『平家物語』ロングヒットの魅力を、みなさんの心で感じてみてください。
(2012年掲載)