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世界を読み解くコラム

  • 法学部
  • オフレコ問題からメディアの倫理と法を考える
  • 大石 泰彦 教授
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相次ぐ「オフレコ」破り

「書いたらその社は終わりだからな」
「放射能つけちゃうぞ」
「犯す前に今から犯しますよと言うか」

 

昨年、政治家や官僚のこうした非公式の発言が物議をかもし、結局、彼らは最終的に辞任にまで追い込まれました。しかし、テレビ・新聞などのメディアは、最初からそろってこれらの発言を報道したわけではありません。確信的にそれを報じたところ、他社に追随したところ、対応はさまざまでした。このような報道の違いには、それぞれのメディアが考える「倫理」の見解が反映されています。

 

 

東日本大震災以降、今までは漠然と信頼していたものが、根底からあやしくなってきている現実があると私は感じています。「オフレコ破り」問題が多発しているのも、その影響を受けているのでしょう。政治家や官僚などの権力者、それから大企業などが、本当に頼りになるのか、どんな姿勢で仕事に取り組んでいるのかなど、日本国民全体からこれまでになく厳しい目が注がれ、メディアは今まで通りの政治・経済報道でよいのか、自問自答しているのではないでしょうか。毎回参加者を増やしている永田町での反原発デモでは、メディア批判の標語や叫びも見られます。

 

そもそも「オフレコ(off-the-record)」、すなわち「その内容を公表しないことを前提として行われる取材」には、どんな意味があると思いますか。取材は事件があった時や話題にのぼった時だけに行い、その時の旬のネタを取ってくるだけではありません。中期的・長期的に取材することによって、事実をどうとらえ、位置づけていくかが大切です。取材中、その時点ではまだ十分に確認がとれていなかったり、裏に差別などのタブーが存在していたり、何らかの理由で「公表をしない」という前提で当事者の話を聞くことがあります。しかし取材内容は公表できなくても、背景を知っておくことで、その時点でのニュースの伝え方の深みも違ってくるのです。

 

オフレコ取材の是非は以前から問われています。取材過程にオフレコを組み込むことによって、初めて真相に迫る、掘り下げた取材ができると考える肯定論と、オフレコを用いることによって、記者が取材対象に絡めとられ、場合によっては情報操作されてしまうという否定論です。しかしオフレコ取材の本質的な問題は、このような肯定・否定論ではなく、メディアが誰に向き合って仕事をしているのかということなのです。

メディアの健全なあり方とは

日本国憲法21条1項には「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由はこれを保障する」と規定されています。メディアはこの「表現の自由」に基づいて、さまざまな取材をし、テレビ・新聞などで報道しています。

 

基本的に国会も選挙も多数決であるように、憲法も多数決原理で出来ています。しかしながら世の中には多数派ではない、少数者もいるわけです。そのために人権があわせて保障されていて、「表現の自由」も人権の一つですから、その本質的な意味は、多数決によっては救われない「少数者の声」をあらわにすることにあります。そうすると「多数決に乗っかっている政治権力というものを、少数者の観点もふまえた立ち位置で批判していくこと」が、メディアの役割であるということになるでしょう。沖縄や被災地の思いを踏みにじる発言を、オフレコ破りをしてまで報じたメディアは、もしかするとそのような観点から報道に踏み切ったのかもしれません。

 

先日、取材源を公開した日本経済新聞社が問題になりました(2012.7:事件の背景や経緯は右記をご覧ください)。記事掲載時には「関係者筋」などと言葉をにごしていたものが、自らが裁判に巻き込まれると一転して裁判所ではそれを明らかにしてしまったのです。これは、オフレコ破りを超えてジャーナリズムの大原則を逸脱した行為であると言わざるをえません。メディアが、国民への開示責任よりも、自分の身を守ることを優先してしている姿勢があらわになってしまったのです。「倫理」に対するメディアの認識の低さがうかがわれる事件です。

 

そもそもこの国で、メディアに携わる一人一人が、本当に「知識」「技術」「倫理」に裏打ちされた「プロ」としてのジャーナリスト意識を持っているのでしょうか。日本では、諸外国のように、大学でも、別の教育機関でも、「プロ」としてのジャーナリストを育てる教育はほとんど行われていません。多くのメディア人は、「大学ではジャーナリストは育たない」と考え、「プロは現場でこそ育つ」という信念を持っているようにみえます。現場の教育では「知識」や「技術」は身に付くでしょうが、プロとしての「倫理」はどうでしょう。もちろん、自らの仕事がこれでいいのかと自問し悩む良心的な記者がいることは私も知っています。しかし、多くの記者は自分の信念や生き方を脇において、まずは会社員として行動しているように思えてならないのです。しかし「3・11」以後の社会の激動を見ると、今こそ一人一人が自ら「倫理」を考え行動すること、そして政治や企業のみならず、メディアも変わっていくことが必要だと強く感じます。

 

「法」を追求することは「倫理」を考えること

メディアを批判するとき、よく法規制の必要性が叫ばれます。しかし、政治を監視し批判することが期待されているメディアの存在を、政治権力が作るルールである「法」によって完全にコントロールしてしまったら、「表現の自由」は意味をなさないことになります。その反面、ルールがなくていいわけでもありません。こうして、社会の自律的なルールである「倫理」がクローズアップされるわけです。

 

医療の世界を考えてみましょう。医療の現場は、日々命に関わる選択をしなければいけません。そんな中で「安楽死」や「ターミナルケア」、「輸血拒否」など、新しい倫理的な問題が生まれてきています。これらの是非は、「法」では簡単にその善悪を判断できませんし、またそうすべきでもありません。法学の一分野である「医事法」を学ぶ人たちは、医の現場に密着し「医の倫理」や「生命倫理」についても考えなければならないのです。

 

教育の世界はどうでしょう。今大変な問題になっている「いじめ」の問題を考えてみましょう。公権力である警察が介入し、教育委員会からの指導があったとしても、この問題は根本からは解決しません。そこでは「教師をどう育てていくべきか」「子どもたちの人間関係をどう構築していくか」などの問題がより本質的です。なので、教育の法律「教育法」を学ぶ人たちは、同時に「教育学」を学び、「教師の倫理」を考えることが必要になります。

 

それではメディアが考えなければいけない「倫理」とはどういったことでしょう。「容疑者の顔写真を公開すべきかどうか」、「災害の現場で、取材を優先すべきか、人命救助を優先すべきなのか」。このような問いに絶対的な答えはありません。ですが、「法」で規制すれば済むというわけではないのです。大事なのは、メディアに関わるジャーナリスト一人一人が、それぞれの問題について過去の事例から学び、最後は自分でよく考え行動する、つまり「倫理的」であることです。「表現の自由」は、こうした「倫理」があってはじめて光を放ちます。

 

このように「法」というのは具体的になればなるほど、社会の現実に向き合わなければならなくなり、社会全体のルール「倫理」の問題に行き着きます。個別の倫理問題には絶対の答えはありません。しかしながら、答えがないからと言って考えなくていいものではなく、社会のあらゆるところで、「プロ」が「職業倫理」について常に考え実践し、試行錯誤をくり返すことが、健全で自由な社会を維持する原動力になるのです。

「メディア倫理」から「自己表現」と「プロ意識」を学ぶ

これまで「メディア倫理」についてお話してきましたが、これはメディア関係者だけの問題ではありません。近年、急速に発達したブログ、twitterやFacebookなどSNSを使用している皆さんにとっては他人事ではないのです。

 

ブログやSNSを通じ、10人や20人の友だちに発信した感覚で書き込んだものは、実は日本中、世界中の誰もが見られる「公」の場とつながっています。誰しも、会社や学校などの一般社会「公」で見せる自分と、家族や友だちなどの「私」で見せる自分は、言動が違うでしょう。「ここだけの話ね」と聞いたことをついつい友だちに話してしまう、懇談会などお酒が入った席で、つい本音をもらしてしまう。本来なら「私」の場でしか見せない自分や友だちのことを、ブログやSNSに書き込み、何の気なしに「公」にしてしまっていませんか。それによって、人間関係が崩れたり、会社の内定が取り消されたりする人がいると聞きます。このようなブログやSNSでの問題は、多くの人が公共の場に情報を置くことの意味やリスクをよく知らないところからきています。反論もあるかもしれませんが、おそらく、このような失敗をする人は、その多くがニュースに関心のない人、つまり「公」のモードを知らない人なのではないでしょうか。

 

 

誰もが発信者になれる今、ジャーナリストにならないとしても、「公」の場に自分を表現する際の基本姿勢を築くために、「メディア倫理」は有益であると考えています。「ネットワーク上での倫理」と「メディア倫理」は別物であるとの見解もあり、また本来はそうあるべきなのかもしれません。しかし「倫理」の本質が「経験からの教訓」だとすると、現段階では、むしろジャーナリスト志望ではない多くの人こそ、メディア倫理を知り、学ぶことが必要であると感じています。

 

また「メディア倫理」は「プロ意識」のひとつでもあるとも言えます。すでにふれたように、プロになるためには知識や技術だけではなく、「倫理」が必須なのですが、日本ではこの点についての認識が甘いように思います。知識や技術はすごいが、「倫理」の欠落した医師や教師、弁護士なんてイヤでしょう? このような専門職だけではなく、どの仕事にも「職業倫理」は存在しています。今この変動する時代状況の中で、社会で本当に必要とされているのは、プロとしての誇りをもち、試行錯誤する職業人、それを支える社会の仕組みなのではないでしょうか。

 

今回は「オフレコ破り」の話から、メディアの「法」と「倫理」についてお話しました。「法」を学ぶことは、条文や判例を「暗記」することではありません。「法」は社会を離れて存在するものではないからです。本当に「法」を理解するためには、まずは社会の現実と向き合うことが必要です。そうすれば「法」と「倫理」が不可分なものであること、そして「法学」が血の通ったダイナミックな世界であることが実感できるでしょう。「メディア法・倫理」を通して、私はこのようなことを学生たちに伝えたいと、いつも思っています。

あわせて読みたい

  • 『メディアの法と倫理』 大石泰彦著(嵯峨野書院:2004)
  • 『マスコミの倫理学』 柏倉康夫著(丸善:2002)
  • 『どうする取材源-報道改革の分水嶺』 藤田博司著(リベルタ出版:2010)

青山学院大学でこのテーマを学ぶ

法学部

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  • 大石 泰彦 教授
  • 所属:青山学院大学 法学部 法学科
    担当科目:憲法A・B、言論法A・B
    専門分野及び関連分野:メディア法, メディア倫理, 憲法
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