シェイクスピアが著した『ハムレット』や『ヴェニスの商人』など数々の芝居は、現在も多くの国で上演されて、日本でも馴染み深いのではないでしょうか。戯曲のまま読まれるのはもちろんのこと、舞台劇の領域を越えて、映像作品や絵画や音楽の題材として、さまざまな芸術の媒体で表現されています。
イギリス文化の国際交流を推進するブリティッシュ・カウンシルが、ブラジル、中国、ドイツ、インド、アメリカの若者5000人を対象に行った調査によると、イギリスと聞いてすぐに思いつく人物として名前を挙げられた第1位は、エリザベス女王でも、サッカー元イングランド代表のベッカムでもなく、なんとシェイクスピアだったそうです。
2014年はシェイクスピア生誕450年、そして2016年は没後400年にあたります。ロンドンの「シェイクスピア・グローブ座」は、劇作家の450回目の誕生日を記念して、2年間にわたり、グローブ(=地球)の名にふさわしく、世界200国以上を巡る『ハムレット』のツアー公演に出かけています。
このように、ここ数年は世界各地がシェイクスピアで盛り上がることは間違いありません。この機会に、シェイクスピアの魅力にふれてみてはいかがでしょうか?
400年もの時と国境を超えて、いまも多くのファンを獲得しているシェイクスピア。その魅力は、いったいどこにあるのでしょうか?
その最大の理由は、なんといっても人間の普遍的なテーマを描いていること。シェイクスピア作品はそのほとんどが、人々の間に営々と語りつがれた有名な物語を材源に作られています。生と死、愛と憎しみ、出会いと別れなど、今も昔も変わらない本質的な人間感情がベースだからこそ、そして、多様な解釈を受容する幅が広く、自由な表現が可能であるからこそ、現代の芸術作品として新しい装いをまとっては、世界中の人に訴えかけるのです。
ところで、シェイクスピア研究には「本文批評」という分野がありますが、これはひと言で言えば、シェイクスピアの書いた言葉が本当は何だったのか、を研究する分野です。意外に思われるかもしれませんが、シェイクスピア本人が書いた原稿は何ひとつ残っていません。そこで、彼の存命中に出版された単行本と、没後に出版された全集だけをよりどころにして、シェイクスピアの校訂本がイギリスでは18世紀以降になってから続々と出版されるようになりました。その際、意味の通じにくい箇所は、印刷時の誤植だろう、と判断されて、さまざまな改訂(時には改ざん)が施されてきたのです。
さらに、外国語への翻訳もさかんになされました。日本では明治期以来、優れたシェイクスピア翻訳が重ねられてきましたが、例えば、悲劇『ハムレット』に登場する名せりふ“To be, or not to be, that is the question:”は、翻訳者によってそれぞれ以下のように訳されています。
「世に在る、世に在らぬ、それが疑問ぢゃ」(坪内逍遥訳)、「生か、死か、それが疑問だ」(福田恆存訳)、「このままでいいのか、いけないのか、それが問題だ」(小田島雄志訳)、「生きてとどまるか、消えてなくなるか、それが問題だ」(松岡和子訳)。
芝居のせりふというものは、そもそも古典ギリシャ悲劇の時代以来、韻文で書かれてきました。つまり芝居といえばおしなべて詩劇(poetic drama)だったのです。シェイクスピアの劇も例外ではありません。彼の書いたせりふの約8割近くが「詩」の言葉で書かれています。韻律の妙味や言葉遊びなど、詩的な原文の味わいを完全に日本語に移しかえることは至難の業です。
後世の作家、翻訳者、演出家、俳優たちにより貪欲に取り上げられたシェイクスピアの作品は、上のような背景ゆえに多彩な解釈を生みだすことになりました。シェイクスピア作品に刺激されて生まれた小説、戯曲、芸能(歌舞伎、狂言、落語)、音楽、絵画などが数多く存在するゆえんです。多くのアーティストにとって、シェイクスピアとは、自己を表現するのに、それほど挑戦しがいのある芸術的コンテンツなのだと言えるでしょう。
さて、ウィリアム・シェイクスピアとは、どのような生涯を送った人物だったのでしょうか? 残された資料からは、その実像はおぼろげにしか見えてきません。しかし、今から400年以上も前の話と思えば、それも不思議ではありません。彼の生きた時代は、イギリスがスペインを凌駕し、ヨーロッパ列強の座にのしあがったエリザベス女王の治世でした。
シェイクスピアは、イングランド中部ウォリックシャーのストラットフォード・アポン・エイヴォンに生まれました。楡(にれ)の木に囲まれた丘陵が広がる、エイヴォン川のほとりののどかな田園地帯でした。父親のジョン・シェイクスピアは手袋の皮革製造業などを営んでいたようです。8人いた子どもの3番目、長男として、1564年の4月26日にウィリアムが洗礼を受けたという記録が残されています。
次にシェイクスピアの名前が伝記に登場するのは、1582年、18歳のときです。当時、結婚するには連続して3回、日曜日の礼拝の間に婚姻の予告をすることが必要でしたが、それを「1回で済ませてほしい」旨の願い出がなされています。お相手は近郊の村の娘、アン・ハサウェイでした。しかし、なぜ予告を1回で済ませたかったのでしょうか? これについては、最近の言い方で言えば「おめでた婚」だったようです。翌年の春には長女スザンナが誕生しています。その後、双子のハムネットとジュディスも生まれ、彼は21歳にしてすでに3人の子持ちになっていました。
その後、伝記には、約7年間にわたって空白期間があります。近在の郷士の庭園からシカを盗んで故郷に居づらくなりロンドンに出奔した……などのさまざまな伝説が伝えられるのがこの時期です。次に、私たちは意外なところでシェイクスピアの名前に出会うことになります。ある落ちぶれた劇作家が皮肉まじりにシェイクスピアに言及したと思われる文章を残しているのです。その文章には「我々の羽で美しく着飾った成り上がりのカラスが表れて、この国で舞台を揺り動かせるのは自分だけだとうぬぼれている」と書かれています。「舞台を揺り動かす」という表現“Shakescene”は、彼の名前“Shakespeare”への露骨な当てこすりではないか、と考えられてきました。先輩作家の書いた悪口のおかげで、私たちは劇作家シェイクスピアの存在を知ることができた、というのです。
この「失われた年月」をめぐってはじつは諸説あるのですが、とにかく、この文章が出版された1592年(28歳)のころには、シェイクスピアは劇作家としてすでに活躍を始めていたようです。
シェイクスピアは、所属する劇団「ロード・チェンバレンズ・メン」(のちにキングズ・メンと改名)の座付き作家、俳優、そして劇団の株主として活躍した人物でした。
生涯に残した劇作の数は37編というのが以前の通説でしたが、現在では合作も含めて40編の芝居を書いたとされています。シェイクスピアが亡くなってから7年後の1623年に出版された最初の戯曲全集『ファースト・フォリオ』では、その作品を“Comedies”(喜劇)、“Histories”(歴史劇)、“Tragedies”(悲劇)の3つのジャンルに分類しています。
喜劇は、内容的にはもっぱら恋愛喜劇で、登場人物の婚礼の場面で終わるものがほとんどです。時代も場所も、あえてエリザベス朝やロンドンから遠く離れた背景を設定して、愛の祝祭性が強調されます。『十二夜』(Twelfth Night)に登場する「もし音楽が恋の糧であるならば、やめずに奏でてほしい」というような、琴線に触れる名せりふに事欠きません。登場人物では、女性の活躍が多いのが特徴です。『ヴェニスの商人』(The Merchant of Venice)のポーシャは敵役であるユダヤ人シャイロックを裁判の場で見事やり込めてしまいますが、そうした粋で利発なヒロインたちが喝采をさらいます。
歴史劇は、白ばら、赤ばらという紋章のもと、ヨーク家とランカスター家というイングランドの貴族が対立して王位を争った「ばら戦争」に取材した作品が核となっています。当時は、この内乱の記憶が民衆の心にまだ生々しかった頃でした。『リチャード三世』(Richard Ⅲ)に登場するせりふ「われらが不満の冬もいまやヨーク家の世となり、光を浴びて栄光の夏となった」は、おそらくイギリス人であれば誰でも知っているような名せりふです。英語圏の人たちが日常会話の中で使う名言や格言のおよそ1割はシェイクスピアの作品に由来しています。無価値なものを必死に欲しがるさまをアイロニカルに表現した”A horse! a horse! My kingdom for a horse!”(「馬をくれ!馬を!代わりに俺の王国をやるぞ!」)などはそのよい例で、同じ『リチャード三世』に登場するせりふです。出典は知らずとも、ある場面でふと口をついて出てしまうほど英語表現の中に浸透しているのです。日本語ではさしずめ、「遅かりし由良之助」(歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』のせりふ)あたりがこれにあたるでしょうか。
そして最後に、悲劇のジャンルがきます。その代表作は、世に名高い四大悲劇『ハムレット』(Hamlet)『オセロー』(Othello)『リア王』(King Lear)『マクベス』(Macbeth)です。シェイクスピア悲劇の傾向は、主人公が自分の内面に巣食う悪や欠点のために取り返しのつかない所業を行ってしまう。その結果、世界の秩序を揺るがす事態を引き起こし、自らも命を落とす報いを受けるが、その過程で、ある哲学的な自己認識に達する……とまとめられます。主人公が転落のさなかに真実に目覚める場面が一番の見どころです。主人公の「認知」した人生観が、凝縮された表現に結晶化したせりふこそ、シェイクスピアの天才の証です。「人生は歩きまわる影に過ぎない、哀れな役者だ、舞台の上を気どって歩いては、ほえたてるだけ、出番が終われば見向きもされない」というマクベスのせりふなど、まさにその典型と言えます。
ここまで、シェイクスピアの人物像や、その作品の魅力について述べてきましたが、シェイクスピアに近づくための一番よい方法は、とにかく「生の舞台に接すること」です。ぜひ一度、劇場空間の中で、五感を総動員してシェイクスピアを味わっていただきたいと思います。
冒頭で紹介したように、2014年はシェイクスピア生誕450年、そして2016年は没後400年にあたります。ここ数年は、多くの劇団がシェイクスピア作品の上演を予定しています。
今日の日本には、シェイクスピアを若々しい感覚でとらえた親しみやすい舞台があふれています。難しいことは抜きにして、まずは非日常の空間を楽しんでみましょう。その結果、「ああ、シェイクスピアっておもしろいんだ」と思えたら、もうあなたはシェイクスピア・ファンの仲間入りです。
(2014年掲載)