AGU RESEARCH

世界を解き明かすコラム
ー 研究者に迫る ー

私たちが生きている世界には、
身近なことから人類全体に関わることまで、
さまざまな問題が溢れています。
意外に知られていない現状や真相を、
本学が誇る教員たちが興味深い視点から
解き明かします。

  • コミュニティ人間科学部
    コミュニティ人間科学科
  • 「感受性」と「勘」から
    教育と社会のありようを紐解き、課題の解消を目指していく
  • 西島 央 教授
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    教育と社会のありようを紐解き、課題の解消を目指していく
  • 西島 央 教授

社会の中にある教育をとらえる

教育社会学という学問は社会の中での教育について考える学問です。「教育」という言葉はついていますが学校の中のことだけを考えるのではなく、例えば地域や家庭の違いが学力の差につながっているのではないかなど、教育と社会をめぐるさまざまな課題を社会学的観点から分析する、そのような学問領域です。

大学院の修士課程まで、学校教育を通じて政治意識がどのように形成されていくか、その過程を研究対象としていた私に、指導教官は「君の関心は政治意識の形成過程よりもその前にあるように見える」と指摘し、「これを読むと良い」とベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』という本を渡されました。これは有名な研究書で、社会のまとまりがつくられていくにあたって、文化を通じた個々人の体験が共同体に対してどのように作用するのかを分析していく内容ですが、当時の私には難解で「なぜ、これを読めと言われたのだろう」とピンと来ませんでした。

ところが、修士論文をまとめた直後のことでした。たまたま文部省唱歌や童謡などの日本の伝統的な歌を集めたCDを聴いていたときに「あっ、そうか」と感じたのです。私たちは例えば〈君が代〉を聞けば日本人であることを強く感じます。でもそれは、「国歌だから」ではありません。〈春の小川〉でも〈ふるさと〉でもきっと同じような感覚をもつはずです。21世紀の日本で誰も「うさぎ追い」なんてしたことがないのに、「うさぎ追いしかのやま」というフレーズが琴線に触れて、私たち日本人なら誰もが似たような感情を共有するのではないでしょうか。ということは、この国のまとまりをつくるにあたって音楽教育が大きな影響を及ぼしているのではないか。そう感じた私は、博士課程で音楽教育の社会的な役割に関する研究を行おうと決意したのです。

東京藝術大学の音楽教育研究室の有志と共同で長野県の高遠小学校というところへ調査に行った際、戦前の資料から「音楽室の時間割」が出てきました。私はこれに「すごく面白いものが出てきた!」「そうか、音楽の授業をするには、音が鳴っても良い『場所』が必要だから、音楽教育が普及していくことと校舎に音楽室が設置されるようになっていくこととは大いに関係するはずだ」と興奮をおぼえたのです。一方で藝大の人たちはそれほど反応を示しませんでした。彼ら彼女らは、五線譜に書かれた音符さえあれば頭の中で曲が流れるので、「音を鳴らす『場所』が必要」という考えにならなかったのでしょう。教育社会学が社会の中にある教育をとらえるものである以上、私たち研究者それぞれの経験や社会性も学問に影響を及ぼします。この場面では、私が楽譜を見たら頭の中で曲が流れるほどの音楽経験をしてこなかったから、資料から「場所」の問題に気付いたり仮説を思いつく「勘」が働いたりしたのです。

『戦時下の子ども・音楽・学校』(2015)より抜粋

 

その後、音楽室に関するテーマに的を絞った私は調査研究の地域を広げ、その成果を2006年に『楽器・唱歌室からみた唱歌教育の普及過程』という科学研究費の報告書にまとめました。博士課程に進学した際、周囲には「音楽教育なんて研究になるのか?」と言った方もいましたが、結果的にはこの論文で音楽教育史の捉え方を多少なりとも変えるような成果を残すことができたのです。

“水洗トイレ”で禁じられていたこととは?

これまで私の研究は、学校教育を通しての社会のまとまりづくりや広い意味での規律・規範の形成に焦点を当ててきていました。音楽教育に関するものをはじめ、部活動に関する社会的な意義や役割やその範囲での諸課題なども研究対象として取り組んでいますが、現在、大きな関心を寄せているのが、トイレや手洗い場といった学校の環境衛生の問題です。これも音楽室同様、史料の中に大きなきっかけがありました。

教育史や近代史の研究仲間と、長野県の飯田市で学校調査をしていた時、追手町小学校という学校の資料室から非常に興味深い文献が出てきました。子どもたちの健康状態等全般を記していた「看護日誌」という史料なのですが、昭和10年代の「看護日誌」の「便所」の項目に、「新しい(鉄筋コンクリート製の)校舎にある水洗便所では大をするなと指導しているのに、今日も○人が大をした」という趣旨の記述が何度も出てくるのです。そんなことが記録されている背景にはどのような社会事情があったのでしょうか。

追手町国民学校 昭和19年度 看護日誌より抜粋

 

実は本学青山キャンパスの古い鉄筋コンクリート製の校舎の1号館には、2004年時点で建物内にトイレがありませんでした。その年に非常勤講師として初めて本学に来て、担当科目の教室としてあてがわれた1号館に入った際に、建物内にトイレが見当たらなくて探しているうちに「向かいの○号館のトイレを使ってください」という掲示を見つけたときには、「とんでもないところに来てしまった」と驚きました。でも、研究を進めてきた今だからわかることなのですが、それは本学だけの特殊な事情ではありませんでした。昭和初期頃までの木造の校舎では汲み取り式のトイレが校舎の外にあるのが一般的でしたから、その頃に建てられ始めた鉄筋コンクリート製の校舎でもトイレが校舎内にないことはそれなりにあったと考えられます。

戦前から戦後のある時期までの学校では排泄物を肥料として周辺の農家に売って収入にしていた事例があります。ちょうどその頃に従来の木造の校舎に加えて、鉄筋コンクリ―ト製の校舎を建てて、校舎内に簡易水洗のトイレを設置した追手町小学校の「水洗便所で大をするな」も、トイレをきれいに使いたいとか水がうまく流れないとかだけではなく、収入源である排泄物が集まらないと困る、水洗で流してしまうと損をする、おそらくそんな事情もあったのだろうと推察されます。

学校教育にかける予算が潤沢ではない時代、例えば歌唱の伴奏のためのピアノやオルガンを地域住民が資金を出し合って音楽室に設置するなど、当時の学校は地域社会の支援を受けて設備を拡充していました。ゆえにその経営も地域社会にとって大きな関心事だったと考えられます。このように、教育と社会の結びつきが非常に強かったことや新しい教育実践に取り組むにはそれに適した「場所」が必要だったこと。その関係を音楽室やトイレなどのハードウェアが示しているのです。

地域社会の実情を踏まえ健康格差解消を目指す

教育と社会の関係は日本に限った話ではありません。10年ほど前にアフリカのガーナに学校見学に行った際、トイレの衛生状態が悪い、「手を洗いなさい」と言われても手洗い場の蛇口がひねっても水が出てこない、そもそも水道がないなど、SDGsなどで望まれている環境衛生を実現できない状況を目にして、なんとかして改善する方策を考えなければいけないと思いました。丁寧にリサーチをしてデータを示して、これは地域社会の人々みんなの健康に関わる問題なんだという意識を醸成できれば、自然と事態の打開に動いていくのではないか。後から思うとそうした考えは浅はかではあったのですが、当時は学校を切り口に健康状態を引き上げてあげたい。そのようなことを考えながら、アフリカの学校のトイレの調査研究に取り組み始めました。

給食の時間に、たらいにはった水で手も食器も洗う子どもたち(ガーナ)

 

望ましくない学校の環境衛生を改善し、地域間や国家間の「健康格差」を解消するには、公衆衛生学的な発想で考えれば「学校のトイレを水洗にすれば解決する」などとなりますが、それだけではそれぞれの社会の実情をあまりにも踏まえていません。教育社会学の観点から地域社会や学校の実情に合わせて「健康格差」の背景について考えていくと「水洗トイレにする」ことだけで済む話ではないことがわかってきました。

アフリカのいくつかの国の学校のトイレや手洗い場を見てきて感じるのは、上から目線で日本やSDGsの望むスタンダードを基準に課題を指摘するのではなく、現地に合った環境衛生をどのように構築していくかが大切だということでした。そのためにはその地域社会に住む人々の衛生意識や衛生行動、慣習、文化、宗教、産業、インフラなどさまざまなことを考えなければなりません。例えば校舎内の水洗トイレには水の出る蛇口がいくつもあり、衛生に対する指導が行き届いていて、子どもたちはトイレの後には蛇口で手を洗うのに、給食の時間には中庭に置いたたらいにはった水の中で手も食器も一緒に洗っている学校がありました。「教育水準を上げれば良い」「水洗トイレをつくれば良い」だけでは、環境衛生をよくして人々の健康状態を上げることはできず、科学に裏づけられた普遍的な知識とその地域社会なりその学校なりに適した実践とを結びつけていくために考慮しなければならないことはたくさんあることに気づきました。

その一環として、現在は日本の学校の手洗い場の使い方に関する研究に取り組んでいます。学校のトイレについては、かつては何人に何カ所といった規定もありましたし、建築学の観点などから数多くの研究もあります。しかし手洗い場には規定も体系的な研究の蓄積もありません。実際、コロナ禍以降は児童生徒が一斉に手を洗いに行くようになったため、従来の設備状況では利用がうまくいかない課題も見られるようになりました。ですから、まずは児童生徒が手洗い場をどんなふうに使っているかというところから調べていき、多様な使い方の背景を探っていきながら、課題の改善につなげていく必要があると考えています。

自分の家から何キロも歩いて公共水道まで水を汲みに集まった人たち(エチオピア)
・・・日本のスタンダードを持ち込めば良いというわけではない

 

アフリカでも、それぞれの地域社会の状況に合わせた手洗い場を整備することによって、衛生意識とそのための行動をより近付けていくことができるのではないかと考えています。その際に、公衆衛生学などの理系的なアプローチも非常に大切ですが、一方でハードの整備だけにとどまらず、慣習や文化や宗教などにも配慮した社会的なアプローチによって衛生意識と衛生行動に働きかけることもして、結果として健康状態を改善し健康格差を縮めていくことが大切だと考えています。教育社会学の知見を公衆衛生学に生かしていく感じです。

このやり方は、アメリカ在住の社会疫学の研究者であるイチロー・カワチさんが日本に講演にいらしたときに”Arbitrage”(アービトラージ)という言葉を使って紹介してくださったものです。ある社会事象や自然現象にアプローチする際、より多くの成果を上げている学問領域の考え方や知見をまだ成果の少ない学問領域に持ち込んで生かしていくという意味で、振り返ると、私の研究は音楽教育も部活動も学校トイレも、
“Arbitrage”によって成果を上げてきたといえます。

「感受性」や「勘」が学びや探究に求められる

“Arbitrage”に加えて、教育社会学を学ぶにあたって、いやどんなことを探究するにしても、高校生や大学生のみなさんに大切にしてもらいたいことがいくつかあります。まずは「感受性」。芸術家に話を聞くと「想像力が豊かだと思われがちだが、そうではなく、感受性が豊かで、社会や自然やさまざまなことをたくさん五感で受け取って心の中が関心や疑問でいっぱいになって、そこからあふれ出てくるものが作品になる」と言います。学問も同じです。感受性を豊かにして、社会や自然にしっかり向き合い、五感で受け取ること。自分の感受性と他の人のそれは異なりますから、同じ社会や自然に向き合っていても、それぞれ自分独自の社会や自然の捉え方をし、他の人とは違う関心や疑問をもつはずです。

そして何より大切なのが「勘」です。小松左京の名作SF作品『日本沈没』では、小説はもちろん、1973年公開の映画版でも1974年のTVドラマ版でも、そして2021年にリメイクされたTVドラマ版でも「科学者にとって一番大切なことは何か」「カン(勘)です」という会話が出てきました。「勘」の正しさを証明するために、「直観」と「イマジネーション」による仮説を立てて調査や実験を行ってデータを集めていく。もちろん教育社会学は合理的な学問ですから、客観的な正しさが必要ですが、教育社会学に限らず、科学を発展させて社会や自然を今までより理解していこうとする学問の原点は「感受性」や「勘」なのだろうと思います。

ただし、「勘」も「直観」と「イマジネーション」による仮説もただの思いつきや当てずっぽうではいけません。自分のわずかな経験だけで、今まで明らかになってこなかった社会や自然を理解できるだけの「勘」を働かせたり仮説を立てたりすることなどできません。そこで、自分には社会や自然がこう見えるという「勘」や仮説を「人に話すこと」で広げたり深めたりずらしたりしながら、その輪郭をはっきり形づくっていくことも、調査や実験を行ってデータを取る前に踏むべき大事なプロセスです。「感受性」、「勘」、「人に話すこと」、そして”Arbitrage”。これらを意識することで、自分独自の視点で学びや探究を深めることができるようになると、私は思います。

学生時代は、とかく「教員が正解を知っている」「教科書に書いてあることが100点の正解だ」と思いがちです。しかし実際はそんなことはありません。大学教員は知らないことわからないことがあるから研究を続けているのであって、その意味では学生とともに学んでいく仲間ですし、教科書には今の時点で一番説得力が高いことが載っているに過ぎません。高校生や大学生のみなさんには、まずは新聞を日々、2〜3紙読み比べて、同じニュース、同じデータをどんなふうに報じているか、切り口がどう違うかということにも考えをめぐらせてみてほしいと思います。いわば擬似的にさまざまな立場から経験を積むということです。そうすることで自ずと批判的な視点が養われて、「感受性」が豊かになり経験に裏打ちされた「勘」が磨かれていくことでしょう。ぜひ自分ならではの「感受性」と「勘」を身につけて、学問の場に飛び込んでもらいたいと思います。

あわせて読みたい

  • 『教育の社会学 <常識>の問い方、見直し方 新版』苅谷剛彦、濱名陽子、木村涼子、酒井朗 著(有斐閣:2010)
  • 『教育問題はなぜまちがって語られるのか? 「わかったつもり」からの脱却』広田照幸、伊藤茂樹 著(日本図書センター:2010)
  • 『知的複眼思考法 誰でも持っている創造力のスイッチ』苅谷剛彦 著(講談社:2002)
  • 『創造の方法学』高根正昭 著(講談社:1979)
  • 『奪われる子どもたち 貧困から考える子どもの権利の話』富坂キリスト教センター編(教文館:2020)

青山学院大学でこのテーマを学ぶ

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